第2話 大正十五年・開店の日

大正十五年四月。

 朝の空気はまだ冷たく、吐く息がうっすら白かった。


 橘俊蔵は夜明け前に目を覚ました。

 ほとんど眠れなかったが、不思議と体は軽い。


 表通りから一本入ったその場所に、店はある。

 木造二階建て。間口は狭いが、通りに面した大きな窓からは朝の光が差し込む。


 暖簾をかける前に、俊蔵は一度、立ち止まった。


「……今日からだな」


 誰に言うでもない言葉だった。


 厨房には、昨日磨き上げたばかりの鍋とフライパン。

 新しいものもあれば、修業先から持ち帰った使い古しもある。

 どれも、俊蔵の手に馴染んでいた。


 火を入れる。

 ガスの音が、小さく鳴った。


 玉ねぎを刻む音。

 包丁がまな板に当たる、乾いたリズム。


 最初に仕込むのは、デミグラスソース。

 これだけは、妥協したくなかった。


 鍋の中で、牛骨と香味野菜が静かに煮込まれていく。

 立ち上る匂いに、俊蔵は目を閉じた。


(これで、いい)


 正午を少し回った頃。

 俊蔵は、暖簾を掛けた。


 「洋食堂 たちばな」


 墨で書かれた文字が、風にわずかに揺れる。


 最初の客は、近くで履物屋を営む初老の男だった。


「今日からかい?」


「はい。よろしければ……」


 男は店内を見回し、頷いた。


「じゃあ、ビフテキを頼もう」


 注文を受けた瞬間、俊蔵の背筋が伸びた。


 肉を焼く音が、店に響く。

 脂が跳ね、鉄板が鳴く。


 皿に盛り付け、男の前に差し出す。


「……いただきます」


 男は一口食べ、しばらく黙ったあと、こう言った。


「ほう……これは、真面目な味だな」


 その一言に、俊蔵の胸が、じんわりと熱くなった。


 客が帰ったあと、俊蔵は帳場に腰を下ろした。

 売上は、決して多くない。


 それでも。


 暖簾の向こうを見つめながら、俊蔵は思った。


(この味で、この店で、生きていく)


 夕暮れ時。

 店の前を、一人の少年が立ち止まっていた。


 のちに、二代目となる少年――

 橘正一だった。


 だがこの日、正一はまだ知らない。


 この小さな店が、

 時代を越え、家族を越え、

 “受け継がれる場所”になることを。


 洋食堂たちばなの一日目は、

 静かに、しかし確かに、幕を開けた。

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LEGACY @nobuasahi7

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