第二章(一)
あまり心地よいとは言えない微睡みの中、わたしは天井の蛍光灯をぼんやりと見つめていた。
注射されたのは、クロルプロマジンか何かかしら、口の中が渇いて仕方がない。
母に言えば、お水を汲んできてくれるんだろうけど、薬が効いているせいか、声を出すのも億劫だった。
一体、あのとき聞こえてきた声の主は誰だったんだろう?
聞き覚えのある声には違いなかったが、今のわたしにはどうしても思い出せない。だけど、テープに録音した自分の声が別人のそれに聞こえるように、わたしを導いた声の主も意外に身近な人物のような気がする。
ぼんやりと里見先輩のことを考えた。
「すみません。あのう・・・さっき、先生の言った問題と答え、わたし、全然わからないんですけど、よかったら教えていただけませんか?」
「ああ、あれ。『真理』が古代文化の人間にとってヒエロファニーと見なされていたことについて述べよってやつ?」
「そうです」
「大学の講義っていうのは、言葉遊びみたいなところがあるからね。――君、一回生でしょ?」
「はい」
「ヒエロファニーって言葉は日本語で言えば、『聖の顕わすもの』っていう意味になるかな。さっきの教授の質問に対する僕なりの答えを易しい言葉で言いかえると、例えば、日蝕を見ても僕たちは不思議とも何とも思わないよね。でも古代の人たちは不思議と言うよりもそれが怖ろしかった。だから、日蝕という現象を解き明かした神話などその時代の『真理』を説明したものが
里見先輩と知り合ったのは、まだわたしが大学に入ってまもないころ、――宗教学概論の講義に出ていたときのことだった。
たまたま隣の席に座っていた男の人が教授に指名され、わたしには言葉の意味さえわからなかった問題にすらすらと答えた。
指名されないことを願うしかその場を切り抜ける術のなかったわたしにとって、彼の姿は新鮮でとても素敵に見えた。大学っていうのはこういう人がいるところなんだなと感動し、そしてまた少しばかり気後れしたのを覚えている。
講義の終わったあと、ノートさえ満足にとれなかったわたしは隣の席だったことに乗じて、彼にさっきの問題の意味とその解答を聞いた。初対面のわたしに彼は迷惑そうな顔ひとつせず、言葉を尽くして丁寧に説明してくれた。
その人が里見先輩だった。
その出会いをきっかけに、わたしは里見先輩と親交を深めた。
彼の所属していた民俗学研究会に入部したのもそれからすぐだったし、彼の影響で哲学や宗教学といった学問に興味を持ち、書物を漁ったり、民研の友人と議論を戦わせたりした。
そして、やがて、その年の大学祭を迎えるころには、わたしと里見先輩の関係は民研のみんなから公然の仲として認められるようになっていた。
「真弓。――おい、真弓ったら」
「え……、あ、ごめん。わたし、寝てました?」
「ぐっすりとね。もう、着いたよ」
「あ、はい」
「ほら、早くバスから降りなさい」
「うん」
去年の夏、初めて山梨に行った。
里見先輩と初めての二人きりの旅行だった。三泊四日。富士急行の出している富士五湖周辺のバスのフリーパス・チケットを片手の楽しい旅。
思えば、この旅の途中、わたしは悪霊に憑依されたのだろう。
榛の木資料館を中心として見事に保存された忍野村の江戸期農家建築、その素朴で美しい茅葺きの民家に魅せられたわたしが民研の仲間を冥界へと誘いざなったのだ。褐色の茅葺き屋根が白く雪化粧した姿を夢想し、彼らに熱っぽく語ったことが今度の冬の合宿のきっかけとなった。彼らは死に、そして、わたしだけが生き残っている。
わたしも死ねばよかったのに――。
湧き起こる
五年前の冬、ティンクが死んだときのように。
あのときティンクはわたしに安らかな魔法をかけてはくれなかったけれど、里見先輩は素敵な言葉でわたしの記憶の中にたくさんの呪文を残しておいてくれた。
「真弓……か」
「なあに?」
「いや、いい名前だなと思ってさ」
「そうかなあ? どこにでもあるありふれた名前だと思うけど」
「よくある真由美っていう名前とは違うよ。『真理の弓をひく者』、弓から放たれた矢は光、すなわち『真理の光明を与える者』。――いい名前じゃないか」
「姓名学ですか?」
「自己流のね。独断とも言う」
「なあんだ」
「でもね。如来の『如』とは『ありのままの真実、あるいは真理』、すなわち『如来』とは『真理より来たったもの』を意味する。釈尊が仏陀って呼ばれるのも、サンスクリット語のブッダが『真理に目覚めた者』を指すところに由来している。だから、真弓っていう名前は僕の解釈では、それと同レベルのありがたい名前だってことに間違いはない」
「うーん。一応、お礼言いますね。ところで、そういうこと言う先輩のお家って浄土真宗?」
「いや、僕はキリスト者なんだけどね」
「何か食べる?」
「リンゴ飴」
「あんな大きいの、どうやって食べるの?」
「まずはぺろぺろと舐める。あとはビックマックの要領でがぶりと一噛み」
「この、人ごみの中で?」
「うーん。……たこ焼きにする」
「賢明な判断だ。真弓も少しは大人になった」
「――からかってるんですか?」
「いいや、本当に褒めたんだよ。年齢としをとるとリンゴ飴を食べるっていう簡単なことが結構難しい問題になる。そのことに気付いた点を評価したのさ。でも、さらに評価したいのは、二十歳にもなってリンゴ飴を欲しがるお前のいいとこ」
「いいとこって?」
「それは自分で考えなさい」
火の粉を避ける振りをして、里見先輩の腕にしがみつく。
夏の終わり――八月の二十六、二十七日に行われる富士吉田の火祭り。高さ三メートル、直径八十センチの
静岡県
その勇壮な祭りは夫の
大松明のあげる炎で顔が熱い。
火照った顔をときどき暗闇に向けては冷ますようにするけれど、巨大な松明のあげる炎はまるで誘蛾灯のようにわたしの心を惹き寄せる。
ぱちぱちと薪の爆ぜる音。
しゅうしゅうと樹液のたぎる音。
素朴な和音に薪の崩れる音が交わると、まるでそれを合図としたように盛大な火の粉が夜空へと舞い上がり、そして、息を止めて見上げるわたしの目の前で、やがてそれは星と区別がつかなくなる。
組まれた右腕と胸元にはっきりと感じる里見先輩の存在。
原始の灯明あかりに照らされたわたしの横顔に感じる里見先輩の優しい視線。
あの夏の夜、わたしは視界に赤く靄がかかっているような安らかな幸福感に満ちていた。
その夜、遅くなってホテルに戻ったわたしは初めて里見先輩の腕の中で眠りについた。
「先輩のお誕生日って、九月でしたよね」
「そうだけど。どうしたの?」
「ううん。プレゼントは何がいいかなって。リクエストとかあります?」
「君の家の見取り図。それから、セキュリティの解除方法」
「え? それって何に使うんですか?」
「犯行計画。柳瀬真弓強奪事件」
「うちのお父さん、学生のころ、空手部にいたんですって」
「――方針変更。お父さんの好きな銘柄のお酒」
両親のいない彼のことを、父と母は思いのほか優しく迎えてくれた。
「我が儘な子ですけど、よろしくお願いしますね」
初めて彼を家に招待したとき、母は笑いながらそう言った。
父の機嫌がよいことは彼に趣味の油絵を披露していることで容易にわかった。
母親の陰に隠れて事の成り行きを見守っていたわたしはそうした両親の反応にほっと胸を撫で下ろし、彼はわたしにだけわかるようにそっと片目をつむってくれた。
彼のウィンクに笑みを返しながら、わたしは自分の未来を予感した。
朝は彼の声で目覚め、夜は彼の口づけで眠りにつく毎日。
お風呂の湯加減に気を配り、パスタの好きな彼のために庭のバジルを摘む夕べ。
ばいばい、お母さん。
あなたが父に守られて穏やかに人生を過ごしてきたように、わたしも彼の背中に守られて生きていきます。
後ろで結ばれた母親のエプロンのひもをそっと指先で弄びながら、わたしは母の背中に別れを告げる。
それは確定的な未来だった。
赤い糸とは言葉の綾。
わたしと里見先輩のそれは誰にも断ち切ることなどできない鋼鉄の鎖のはずだった。
それなのに――。
薬で麻痺した心の奥にじわじわと涙の染みが広がってゆく。
あと二年したら、結婚するはずだったわたしたち。
強固なものだと信じていた現世の絆が、こんなにもたやすく壊れてしまうなんて。
気がつくと、母がベッドの横に座っていた。
病室はいつのまにか母とわたしだけになっている。
「少しは落ち着いた?」
母はわたしの顔に散らばったほつれ髪を指で優しくかきあげてくれた。
「うん」
「お願いだから、気をしっかり持ってね」
「大丈夫」
わたしは母の方に身体を寄せた。
今はまだ何も考えられない。
里見先輩や友人の多くを失ってしまった虚しい学生生活にはもう戻る意欲も湧かないし、これからどうやって毎日を過ごしていけばよいのかもわからない。
でも、わたしのことで涙を流してくれる人がここにいる。顔には出さないけれど父もそうだ。
里見先輩を失ったのはとても辛いけど、あとになってもっと大きな、現実感を伴った悲しみが押し寄せて来るんだろうけど、この人たちがいるかぎり何とか立ち直れるに違いない。
わたしは心の底からそうなることを願った。
そうならなければ、これから先の日常をわたしは到底生きてはいけない。
「神様のおかげね……」
母の胸の中で甘えていると、母がそう呟くのが聞こえた。
「何が?」
わたしは顔をあげた。
「真弓が助かったことよ。声が聞こえたんでしょう?」
「うん」
「それはきっと神様の声よ」
「――違うわ」
自分でも驚くような冷たい声がふいに口をついて出た。まだ少し霧のかかったような頭の中でいくつかの思考が交差していた。
あれが神様なものか、と思った。
「真弓、どうかしたの?」
母の心配そうな声にわたしは思考を中断する。
「え、あ、ううん。何でもない。そういえば、ここって山梨の病院でしょ? お母さんたち、どこに泊まるの?」
「そばにホテルをとってあるのよ」
「そうなんだ。お父さんは?」
「一足先にホテルに戻ったわ。会社の人から電話があるからって」
「携帯は?」
「忘れたのよ。取るものも取りあえず駆けつけたんだから。ああは見えても、お父さん、真弓のこと、すごく心配してたのよ」
「――わかってる」
消灯を知らせるアナウンスが廊下の方から聞こえてきた。
わたしはもう少しと渋る母をホテルに帰すと再び思考の中に沈んだ。
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