第2話:葬儀の準備と、砂嵐の夜
私の最も古い記憶は、病院の白い天井と、鼻をつく消毒液の匂いだ。
三歳の冬。心臓の手術が決まった私に、父は最後まで寄り添ってくれた。
手術室の重い扉が開いたとき、父も一緒に中に入った。本来なら許されないことだったのかもしれない。けれど、父は私の小さな手を握り、手術台の上で怯える私を真っ直ぐに見つめていた。
麻酔のマスクが顔を覆い、意識が遠のいていくその瞬間まで、父の温もりは私の手にあった。
しかし、無事に終わるはずだった手術の後に待っていたのは、想像を絶する闇だった。
術後、ICU(集中治療室)の中で、私は無数の管に繋がれていた。モニターが冷たく響く中、私の心臓は何度も止まりかけた。「心停止が続いては、一、二回脈が触れる」という極限の状態が、何時間も、何時間も繰り返された。
「覚悟をしてください」
医師の言葉に、両親の絶望は極限に達していた。
家では、いつでも私を「連れて帰れる」ように、葬儀の準備が進められていた。生きるために入院したはずの場所から、白い布に包まれて帰るための準備。
死の気配が色濃く漂うICUのベッドで、けれど私は一人ではなかった。
手術前、私は「ピンクのお人形さんが欲しい」とねだった。その願いを叶えるように用意されたピンクの人形は、無数の管に繋がれた私の横で、ずっと一緒に眠っていた。
モニターが心停止を知らせるたび、医師たちが青ざめる中、そのお人形のピンク色だけが、そこがまだ「死の世界」ではないことを、かろうじて主張しているようだった。
実は、手術の直前に妹が生まれていた。
「もし、この子がダメだったら。この子の分も、妹を大切に育てよう」
両親がそう話し合っていたことを、私は後になって知った。
私の命が消えかかっているその時、家では葬儀の準備が進む一方で、新しく生まれた命が「私の代わり」になるための準備もまた、静かに行われていたのだ。
私は、死の淵で、自分の居場所が消えていくような言いようのない孤独と戦っていたのかもしれない。
それでも私は生き延びた。左胸に、一生消えない白く盛り上がった傷跡を刻んで。
奇跡の生還を遂げた私の世界は、小学校に上がる頃、さらに別の色を帯び始める。
母が牙を剥くようになったのだ。
「保育園に行きたくない」
幼い私が漏らしたその一言に、母は激昂し、砂利道を引き摺り回した。足は血だらけになり、鋭い痛みが走る。家の中では、両親が階段から突き落とし合うほどの激しい喧嘩が日常茶飯事になっていた。
「もう、あんたの面倒は見られない」
母の冷たい言葉。体調が悪くても学校を休ませてもらえず、無理をして登校し、帰宅すると高熱を出していることも度々あった。
そんな地獄のような日々で、私の心の支えは二つだけ。
大好きで大切な妹たちの存在。そして、ICUからずっと一緒の、あのピンクのお人形。その人形だけは、誰にも触らせない私の聖域だった。
小学三年生、九歳になる直前の正月。両親は離婚した。
私は引き裂かれるような思いで大好きな妹二人と離れ、一人、父に引き取られる道を選んだ。
「お父さんのところに行けないんだったら、ビルの屋上から飛び降りて死ぬ」
三歳で死の淵から這い上がった私が、初めて自ら口にした「死」という言葉だった。
けれど、あんなに切望した父との生活は、思い描いていたものとは違っていた。
新築の大きな家から、小さなアパートへ。
父は、週に一度は夜の街へと飲みに出かけるようになった。
誰もいない部屋。私はピンクのお人形をぎゅっと抱きしめ、心細さを紛らわせるようにテレビを点けたまま眠りにつく。
深夜、ふと目を覚ますと、画面は「砂嵐」に変わっていた。
ザーーーッという冷たいノイズが、誰もいない部屋に響き渡る。その音を聞きながら、私は世界に一人取り残されたような恐怖に震えていた。
学校でも、私の心は少しずつ削られていった。
運動会の練習。「もっと早く走ってよ」という友達の何気ない言葉が、心臓を病む私には鋭利な刃物となって突き刺さった。
不登校を経て、感情を殺し、心を無にして、私はただ毎日、教室という名の戦場に身を置いていた。
しかし、小学五年生になった春。
そんな私の必死な抵抗を嘲笑うかのように、いじめの波は、より具体的で、より執拗なものへと変わっていった。
あとがき
三歳で命を拾ったはずの私が、なぜ九歳で自ら『死ぬ』と言わなければならなかったのか。当時の孤独を思い出すと、今も胸の傷が痛みます。
次回、私をさらに追い詰めた『教室の地獄』について書かせてください。
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