第一章

02:白きランデブー


 視界を覆っていた底なしの闇が、一転して暴力的なまでの陽光へと塗り替えられた。


「――っ、はぁっ、はぁ⋯⋯っ!」


 悠斗の心臓は激しく鼓動し、短く速い呼吸を繰り返していた。


 反射的に足元を確認する。地面は確かにそこにあった。

 けれど、つい数秒前までそこに感じていた落下感、それが意識全体にこびりついていてなかなか離れない。アスファルトを介して伝わるはずの『重力』が、どこか頼りなく、浮ついているように感じられた。


「⋯⋯あれ⋯⋯?」


 だが、耳に飛び込んできたのは、怪物の駆動音ではなかった。

 聞き慣れた、けれどどこか空々しい日常の音だ。大型ビジョンから流れる軽快なJ-POPと、数千人が入り乱れる靴音、そして駅のホームから響く電子的な発車ベル。


 悠斗は、新軸駅東口――『アルバ広場』のど真ん中に立ち尽くしていた。

 周囲には、スマホを弄り、談笑しながら誰かを待つ人々。平和そのものの、ありふれた土曜日の午前中。


 震える手でスマートフォンを取り出すと、『10:00』と無機質な数字がそこに並んでいた。


 一分も、一秒も経っていない。エリオットとの待ち合わせ時間、そのままだ。

 見上げた巨大な『アルバビジョン』には、さっきまで映っていたはずの血塗られた避難勧告など微塵もない。


 代わりに、真っ白な背景の中で微笑むアイドルが、今日彼が行く予定の最新VR体験会を宣伝していた。


(⋯⋯夢、だったのか⋯⋯?)


 秀才と称される彼の知性が、必死に論理的な出口を探そうと回転する。

 あれほどの生々しい死の記憶が、ただの白昼夢で片付くはずがない。だが、目の前の現実はあまりに穏やかに、彼を嘲笑うかのように時を刻んでいた。


「――ユート!」


 ふいに、聞き覚えのある声に名前を呼ばれた。ボイスチャットで何度も耳にした、あの少しハスキーで、快活な少年の声。

 悠斗は弾かれたように、声のした方へ顔を向けた。アルバ広場の雑踏の中、待ち合わせ場所の柱の影に一人の少年が立っていた。


 自分より少し背が高く、どこかひょろりとした体格。チェックのシャツに眼鏡をかけた、悠斗が想像していた通りのアメリカのギークな男子――エリオットが、そこにいた。


 エリオットとの出会いは、数年前に始めたFPSゲームだった。


 右も左も分からず、ただただ撃たれまくっていた彼を見かねて、基本的な操作から立ち回りまで、悠斗が呆れるほど丁寧に教え込んだのが始まりだった。


 画面の向こうの彼は、屈強なアバターとは裏腹に、どこか臆病で、それでいて優しい声をしていた。それが、悠斗が抱いたエリオットに対する第一印象だ。


 そこからFPSだけでなく、ファンタジー系のオンラインRPG『EIO(エターナル・イマジン・オンライン)』にも誘った。

 意外にも、エリオットは銃弾が飛び交う殺伐とした戦場よりも、剣と魔法の世界の方が性に合っていたらしい。

 今ではEIOにすっかりのめり込み、強力な魔法を操る精霊術師として、一部ではかなり有名なプレイヤーになっている。


 もっとも、『上手い』というよりは『MPが尽きるまで最大火力を叩き込み、敵も自分も巻き込んで相打ち覚悟』という、ハイリスクハイリターンな無謀な戦いぶりで有名だったりするのだが。


 それでも、彼は人懐っこいこともあり、一人っ子の悠斗にとって、彼は初めてできた「親友」であり、同時にどこか放っておけない「弟分」のようにも感じていた。

 だから、ちょっとだけ兄貴分として、エリオットに日本や最新鋭のVR体験を心ゆくまで楽しんでほしいと考えていた。


「エリオット!やっと会えたな!」


 悠斗は親友とのリアルでの出会いに相好を崩し、一歩踏み出す。

 だが、その瞬間に視界が不自然に歪んだ。エリオットの輪郭が真夏の陽炎のように激しくブレ、色彩が混ざり合い、彼の姿が水面に投げ込まれた石の波紋のようにぐにゃりと歪曲していく。


「あ、つ⋯⋯っ⋯⋯」


 脳の奥を直接かき回されるような強烈なめまいに襲われ、悠斗は視界を奪われた。

たまらず立ち止まり、強く目を閉じると、震える手で眉間を強く揉みほぐす。

そして、現実を繋ぎ止めるように頭を振り、もう一度ゆっくりと目を開いた。


「ユート⋯⋯大丈夫?気分でも悪いの?」


 聞こえてきたのは、少年の声ではなかった。

 鈴を転がすような、透き通った少女の響き。視界が焦点を結ぶ。そこに立っていたのは、チェックシャツの少年ではなかった。


 悠斗より少し背が低い、陽光を弾くような金髪ショートカットの女の子だった。

 淡いピンク色のワンピースという、目を引くほどに可愛らしい服装をしている。

大きな翠色の瞳がうるみを帯びて、少し不安げに悠斗を見上げていた。


「あ⋯⋯エ、エリオット⋯⋯?」

「⋯⋯エリスだよ。驚かせちゃったかな」


 彼女は困ったように微笑んだ。悠斗の脳内にあった少年のエリオットという確かな記憶は、その微笑み一つで、跡形もなく消し飛ばされてしまった。


「エリス⋯⋯?どういうこと⋯⋯?じゃあ、エリオットっていうのは?」


 悠斗は掠れた声で、どうにかそれだけを絞り出した。脳内の虚像と、目の前でピンクの裾を揺らす少女が、どうしても重ならない。


「うん、ごめんね。ネットはいろいろと怖いから、男の子の名前にしてたの」


 エリスは申し訳なさそうに視線を落とし、ワンピースの裾を少しだけ、所在なげに弄った。


「そ、そうだったのか⋯⋯。じゃあ、エリオットの声は⋯⋯ボイスチェンジャーで?」

「この声だからね。どうしたって、女だってわかっちゃうから⋯⋯」

「騙してて⋯⋯ごめん」


 消え入るような声で謝る彼女の瞳に、自分への拒絶を恐れるような怯えの色を見たとき。悠斗の中で、秀才としてのプライドでも、死への恐怖でもない、もっと純粋な感情が弾けた。


「あっ⋯⋯いや、そんなことは思ってない。⋯⋯ただ、ちょっとびっくりしただけだから。謝らないでくれ」


 自分でも驚くほど、自然に言葉が出ていた。彼女を安心させたい。はるばる海を越えてきてくれたこの親友を、悲しませてはいけない。その一念が、悠斗の意識を支配していた悍ましい死の残像を、強引に意識の底へと追いやった。


(⋯⋯そうだ。あれは、ただの酷い夢だったんだ。寝不足か何かが見せた、幻覚に過ぎない)


 そう自分に言い聞かせた瞬間、一瞬の浮遊感を感じ、足元に地面があるのかを確認する。その浮遊感が「油断するな」と警告しているかのように、悠斗には感じられた。


(⋯⋯っ。⋯⋯いや、気のせいだ。今は、彼女を楽しませることだけを考えろ)


 悠斗は痛みを意識の隅に追いやり、目の前で不安げに翠の瞳を揺らしているエリスを見た。指先に感じるわずかな熱。広場を満たす喧騒。それらすべてが、さっきまでの地獄がいかに馬鹿げた妄想であったかを証明しているように思えた。


 自分は今、現実に立っている。そして、この素晴らしい現実を、彼女のために完璧なものにしなければならない。


「さあ、行こう。予約の時間はもうすぐだ。⋯⋯せっかく日本に来てくれたんだから、最高に楽しんでもらわないとな」


 悠斗は努めて明るい声を作り、エリスを促した。

 一度刻まれた死の体験。それをただの幻だと無理やり思い込み、悠斗は自らの記憶の底へと深く、深く押し込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る