ヴァーチャル・バウンダリィ・クロニクル ~そのVRは人類の檻。騎士に覚醒した少年は、偽りの神を討滅する!~
白石誠司
リアリティ―仮想境界線の漂流者―
序章
01:新軸区の漂流者
「はぁっ⋯⋯はぁっ、はぁ⋯⋯っ⋯⋯!」
肺が爆発しそうな熱を帯び、喉の奥からは鉄の味がせり上がる。
高校二年生の彼は、周囲の評価によれば『非の打ち所のない優等生』だった。
学年でもトップクラスの成績、端正な顔立ち、そしてあらゆるスポーツを器用にこなす身体能力。教師たちは彼に厚い信頼を寄せ、同級生たちは羨望を込めて、彼を『万能の秀才』と呼んだ。
だが、そんな彼にも一つだけ大きな弱点がある。
それは極度の高所恐怖症だった。
たとえ安全な手すりがあっても、足元にやや高度を感じるだけで、想像力が勝手に「落下」を思い浮かばせ、体が強ばる。
それは、基本は論理的な彼にとって唯一制御できない、不条理な弱点だった。
だが今、彼を襲っているのは、そんな想像上の恐怖ではない。
都内でも有数の賑わいを見せる
だが今、悠斗の視界にあるのは死に絶えたような静寂と、まるで爆撃でも受けたかのように崩された都市の残骸だけだ。
背後から迫る「金属が地面を削るような、重く鋭い足音」。
悠斗は学校の体力テストでトップを譲ったことのない脚力をフルに使い、瓦礫を飛び越え、最短の逃走経路を突き進む。
しかし、疲れを知らない追跡者の速度に悠斗の体力は限界を迎えようとしていた。
「だめだ⋯⋯これ以上は⋯⋯っ⋯⋯!」
角を曲がった先、半壊した雑居ビルの壁面に、人間一人がようやく潜り込めるほどの狭い隙間を見つける。悠斗はそこに滑り込むように身を投げ出し、湿ったコンクリートの冷たい感触に背中を預けて、激しい鼓動を殺した。
(⋯⋯なんだ、あいつらは⋯⋯なんなんだよ、一体⋯⋯!)
悠斗の姿を見失った追跡者は、諦めたのか引き返したようだった。
隙間から覗き見る大通り。そこを、数体のアンドロイドが横切っていく。
2030年代、二足歩行アンドロイドはまだ『平地を自然に歩く』のが精一杯の技術段階であることを、悠斗は知識として持っていた。
街の案内ロボットでさえ、段差一つで無様に転倒しかねない未熟な代物なのだ。
しかし、悠斗の目の前を駆けるそれは、重い乗用車を紙細工のように弾き飛ばし、街灯の鉄柱を素手で引きちぎる暴力的な機動を見せていた。
滑らかで、あまりにも生物的。
そして、完全に『人間を排除する意思』を持って動いている。
秀才と呼ばれた悠斗の理性が、必死に状況を否定しようと叫ぶ。
だが、頬を撫でる熱風と瓦礫の粉塵が、これが逃れようのない現実なのだと彼の脳に直接叩きつけてくる。
(⋯⋯なんで、俺がこんな目に⋯⋯。今日は、エリオットと遊ぶ予定だったのに⋯⋯)
脳裏をよぎるのは、数時間前までの穏やかな期待だ。アメリカから来る親友、エリオットと初めてリアルで対面する、人生で最良の日になるはずだった。
(エリオットは今、どこにいるんだ?
合流場所に向かう途中で、アイツもこの地獄に巻き込まれたんじゃ⋯⋯)
その時。静まり返った廃墟の街に、突如として鼓膜を震わせる緊急警告音が鳴り響いた。大通りに面した巨大な『アルバビジョン』が、ノイズ混じりの真っ赤な画面に切り替わる。
『――緊急放送。現在、『新軸』区内において大規模なサイバーテロが発生しているとの情報があります。アンドロイドが暴走しています。付近の方は直ちに区外へ避難してください。繰り返します。これは訓練ではありません。命を守る行動を――』
「テロ、だって⋯⋯?」
無機質なアナウンスが、悠斗の困惑をさらに深める。
(一体何が起きて、こんなことになったんだ?)
だが、避難しろと言われても、この街の公共の交通機関はすべて機能を失っており、人の足で区外に避難するしかない。
呆然とビジョンを見つめていた、その時だった。
悠斗の頬に、ぽとりと生温かい液体が一滴滴り落ちた。
「⋯⋯えっ?」
雨かと思い、指で拭う。
だが、それは水よりも粘り気があり、指先に残ったのは黒ずんだ油の輝き。
鼻腔を刺すのは、機械油と焦げた電子部品が混じったような、吐き気を催す臭いだった。
嫌な予感に、全身の毛穴が逆立つ。悠斗が恐る恐る、真上の暗がりを見上げた――その瞬間。彼は声にならない悲鳴を飲み込み、全身の血が凍りついた。
ビルの壁面。その垂直なコンクリートに、鋭い指先を深く突き立てて張り付く『異形』がいた。外装の樹脂製皮膚が剥がれ落ち、内部の金属骨格が剥き出しになったアンドロイド。
それはもはやアンドロイド⋯⋯人間に似せたロボットとはいえなかった。
人工皮膚が破れ、内部の金属骨格が露わになっていた。特に下半身は、腰部から下へ、規格の違う数本のアンドロイドの腕や脚が無造作に接合された『機械の蜘蛛』とも形容すべき異様な姿をしていた。
その異形は、レンズ状の赤いセンサーで悠斗をじっと捉え、関節からは冷却液が粘つく糸のように途切れることなく滴り続けていた。
「っ、うわぁぁぁぁぁ!」
逃げ出そうとした瞬間、『蜘蛛』は重力を無視した速度で壁を滑り降り、その両腕で悠斗の両肩を万力のような力で掴みこんだ。
冷たい金属の感触が皮膚に食い込み、骨が軋むような激痛が走る。
そのまま『蜘蛛』は、悠斗をぶら下げた状態で垂直に壁を駆け上がった。
「ガギッ、ギチギチッ……!」と、無理やり歩行用に転用された四肢が悲鳴を上げ、剥き出しのギアが火花を散らす。
悠斗の視界の中で、アスファルトの地面が猛烈な勢いで遠ざかっていく。
1階、2階……あっという間に、見慣れた標識や街灯が足下のはるか下へと消えていった。
「ひっ⋯⋯あっ⋯⋯た、高いっ⋯⋯やめろぉっ⋯⋯!」
やがてビルの中層階、4階から5階に差し掛かったあたりで、異形が突如として動きを止める。
この高さは、地上の瓦礫の一つ一つがまだ鮮明に見えてしまう距離だ。激突した瞬間に自分の体がどうなるか、その光景を「想像できてしまう」残酷な高度。
「や⋯⋯やめろ⋯⋯おと⋯⋯落とさないでっ⋯⋯!」
悠斗の懇願も虚しく、『蜘蛛』の指が無感情に開かれた。
一瞬の無重力の感覚のあと、猛烈な勢いで心臓がせり上がるようなあの『落下の感覚』が全身を貫く。
(姉ちゃんに守られてばかりではいけないと、勉強も運動も頑張った⋯⋯けれど、圧倒的な暴力の前には⋯⋯俺はやっぱり無力だ⋯⋯)
死ぬ。本能がそう告げていた。
視界が爆発的に加速し、 迫り来る灰色のコンクリート。高所恐怖症の彼が最も恐れていた「足場のない死」が、現実となって襲いかかった。
(⋯⋯エリオット⋯⋯)
恐怖で薄れゆく意識の中、悠斗はただ一人の親友を想った。
自分はもう彼とは会えないかもしれない。けれど、せめて――。
(無事なら逃げてくれ⋯⋯。新軸に⋯⋯来ちゃ、だめだ⋯⋯!)
肺の空気が完全に尽き、アルバビジョンの避難勧告も、怪物の駆動音も、遠い海の底の出来事のように消え去っていく。
そして、悠斗の世界は底なしの闇へと落ちていく感覚に襲われる。
――恐怖が極限に達し、意識がブラックアウトしかけたその時⋯⋯
『――見つけた』
脳の奥で、鈴を転がすような少女の声がした。
直後、全身を支配していた凄まじい落下の恐怖が、ありえないほど「温かな光」に上書きされていくかのように、優しく、そして力強い熱に包まれる。
(⋯⋯え⋯⋯?)
暗闇の向こうから、誰かが手を伸ばしてくる気配を感じながら――悠斗の意識は、光の中へと吸い込まれた。
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