余裕の値段

轟ゆめ

第1話 結局この世の中は金だ。

 結局この世の中はかねだ。

 金が無いと心の余裕が無くなる。

 余裕がないと人に優しくなれない。


 これは、誰かに教わった言葉じゃない。

 成功者の本を読んで得た教訓でもない。

 私はこの考えを、地方の実家で、ゆっくり染み込ませるように覚えた。


 地方の、駅から徒歩二十分。

 途中にコンビニが一軒あって、そこを過ぎると急に暗くなる。

 夜になると、街灯より先に虫の気配が勝つ町だ。

 それが私の実家のある町だ。

 

 悪くはない。

 悪くはないのだけれど、「将来」の話になるときだけ、この家は少しだけ息を潜める。まるで、誰かの悪口を言う前の沈黙みたいに。


 ある夕飯の席、テレビから「景気回復」という言葉だけが、妙に明るい声で転がってきた。番組よりも、その言葉だけが元気だった。


 父は味噌汁をすすりながら、器の向こうから首だけを傾ける。

「回復って、どこでやってるんだ?」

 まるで、自分だけ知らない場所で、いつの間にか始まってしまった行事の話みたいに。


 母は自分の椀を覗き込みながら、小さく笑う。「うちには、まだ回ってきてないみたいね」と言った。


 父は一瞬だけ画面に視線を戻し、諦めとも冗談ともつかない声で続ける。

「その回復、賞味期限あるのか?」


 母は間髪入れずに、

「あるなら、きっとうちに来る前に切れるわよ」と返した。

 それで話は終わった。

 景気の話も、将来の話も、だいたいいつもここで終わる。

 誰も嘘をついていない。誰も怒らない。誰も落ち込まない。

 ただ、誰も本気で信じていないだけだ。


 私はその沈黙が嫌だった。


 私は黙って味噌汁を飲んだ。

 具は多い。いつも通りだ。

 景気が回復しようがしまいが、この家では味噌汁の量だけは減らなかった。


 味は、ちゃんとしている。

 ちゃんとしているのに、なぜか安心できなかった。


 たぶんその頃から、私は思っていたのだ。


 正確に言うと、「このままだと自分も、こうなる気がする」という予感が嫌だった。


 だから、都会に出た。


 仕事の関係、ということにしているが、半分は逃げだった。

 もう半分は希望。

 金があれば、余裕ができる。

 余裕があれば、人に優しくなれる。


 私は、優しい人間になりたかった。



 実家を出た日のことは、よく覚えている。

 母はやたらとタッパーを持たせてきた。

 煮物、きんぴら、謎の炒め物。

 冷蔵庫一段分くらいの量が、無言で詰め込まれていた。


「そんなにいらないよ」と言うと、

「どうせ食べるでしょ」と返ってきた。


 父は玄関で靴を履きながら、

「体だけは壊すなよ」と言った。

 成功しろとも、帰ってこいとも言わない。

 その距離感が、当時は少し物足りなかった。


 駅へ向かう道で、私は少しだけ背筋を伸ばした。

 これから始まる人生は、もっとスマートで、もっと合理的で、余裕に満ちているはずだった。


 あの日、駅のホームで母が持たせてくれた大量のタッパーを見ながら、私はもっと格好いい人生を思い描いていた気がする。


 スーツが似合って、忙しくて、でも充実していて――少なくとも、今よりは輝いている予定だった。




 ――五年後。




 私は、一応成功した。


 仕事は順調だ。

 失敗とは言われないし、評価も悪くない。

 名刺の肩書きは、父に説明しやすい形に落ち着いた。


 収入も、悪くない。

 実家にいた頃の自分が聞いたら、たぶん一瞬、話を疑う。

 スーパーで値段を見ずに買い物ができるようになったのは、生活が少し、私の手に収まってきた証拠だった。

 ネイルを選ぶときだって、値段より色で迷っている自分を見て、私はやっと、この生活に慣れたんだと思った。


 一応、成功した。

 これは、事実だ。


 

 ――ただ、そう思いたかっただけだった。



 問題は、その先だった。


 朝の通勤ラッシュ。

 前に立つ人のリュックが邪魔だと感じる。

 急いでいるわけでもないのに、心が先に急ぎ始める。

 エレベーターで知らない人と二人きりになると、

 スマホを見るでもなく、壁を見るでもなく、

 妙な緊張が生まれ、沈黙の置き場が分からなくなる。


 昔の自分なら、こんなことで気分を害さなかったはずだ。

 いや、正確には、気にする余裕がなかった。


 金がなかった頃の私は、もっと必死だった。

 必死だったから、他人に厳しくも優しくもなる暇がなかった。

 それを、私は「優しさ」だと勘違いしていたのかもしれない。


 夜、帰宅してスーツを脱ぐ。

 少し広い部屋。

 静かすぎるキッチン。

 ワイシャツをハンガーに掛けながら、ふと思う。


 ――余裕は、できたはずだ。


 なのに、心は軽くなっていない。

 むしろ、細かいことが気になるようになった。

 人の癖、声のトーン、言葉の端。


 私は、優しくなれただろうか。

 そもそも、優しさって残高で測れるものなのか。


 答えは、まだ分からない。

 ただ一つ分かっているのは、

 

「金さえあれば、すべて解決する」と思っていた自分は、もう、少しだけ嘘くさくなっている。


『金を手に入れても、自動的に人間がアップデートされるわけではない』ということだった。


 それでも私は、まだこの考えを捨てきれずにいる。


 結局この世の中は金だ。


 そう信じてここまで来た。

 なら、その先で何が起きるのか、

 ちゃんと見届ける義務がある気がしている。

 

 金を持った人間が、どんな顔になるのか。

 それを確かめるところまで行かないと、

 実家を出た意味がなくなってしまう。



 実家の温かさを思い出すのは、

 もう少し後でいい。


 私はもう少し、この街で、

 余裕があるはずの自分と向き合ってみるつもりだ。





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2026年1月15日 06:11

余裕の値段 轟ゆめ @yume_todoroki

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