第3話 静かな世界の始動

気が付くとそこはもう人間界だった。

さっきまで確かに聞こえていたはずの天使たちの羽音も、神様の声も、どこにもない。

体は重く、視界はぼんやりとしている。

息を吸うたび胸の奥がきゅっと痛んだ。



――ああ、降りてきたんだ。



そう思った瞬間、どこからか優しい声が聞こえた。

「……あかり」

名前を呼ばれたその瞬間――



天界管理番号A-29の意識の奥で、一枚の光景がふっとよぎった。

慌ただしく走り回る天使たち。

机に突っ伏し、胃のあたりを押さえる神様。

「……胃薬はどこじゃ……」


――大丈夫。


ちゃんと降りたよ。

そう心の中で呟いた、気がした。

次の瞬間。



「――おぎゃあっ!」



自分でも驚くほど大きな声が喉から飛び出した。

息が苦しい。

空気が冷たい。

まぶしくて、うるさくて、よく分からない。

誰かの腕が慌てて自分を抱き上げた。

温かい。

でも少し不安で、また泣いた。


「大丈夫、大丈夫……」

優しくて柔らかい声。

胸の鼓動。

聞いたことのないはずなのになぜか安心する。

その声がはっきりと言った。


「……あかり」


その名前を聞いた瞬間、天界管理番号A-29は泣きながらどこかで納得していた。



――ああ。

これが、私の名前なんだ。



こうして私は、人間界に降り立った。

天界管理番号A-29は「あかり」と名付けられ、何も覚えていない“普通の赤ちゃん”として新しい物語を始めることになったのだった。




そしてなぜかあかりには生まれたときから妙なこだわりがあった。

哺乳瓶の角度が少しでも違うと不機嫌になり、決まった順番でないと眠らない。

理由は分からない。

本人にも、もちろん分からない。

それでも、胸の奥のどこかが

「それでいい」

と言っている気がしていた。

 



その頃――天界では。


柔らかな光に包まれた広間で、神様と天使たちが水面のような光景をのぞき込んでいた。

そこに映っているのは、小さな布団で眠るひとりの赤ん坊。


「……順調、ですかね?」

天使のひとりが少し不安そうに声を落とす。



神様は腕を組み、ふっと微笑んだ。

「うむ。予定通りじゃ。」



「ただ……」

別の天使が視線を揺らす。

「記憶の揺れが、少し早い気がします。」



神様は静かにうなずいた。

「あれだけ完璧に仕様書に全てを詰め込んだのだから……。

しかもほとんど自分でな。

多少記憶の揺れが早くても無理はない。

それにしてもA-29は欲張りだったなぁ。」



天使たちは顔を見合わせクスッと笑った。

「あの子らしいですね。」



「思い出すなとは言わん。」

神様は遠くを見るように言った。

「だが、全部を抱えるにはまだ少し早い。」



 

――人間界。


あかりは眠りの中で小さく眉をひそめた。

知らないはずの景色。

知らないはずの声。

なのになぜか懐かしくて、胸がきゅっと締めつけられる。

白い光。

誰かの優しい手。

名前を呼ばれた気がした。


「……A…2…」


その瞬間、あかりはふっと目を開ける。

理由もなく涙がにじんだ。

けれど、それが何なのかは分からないまま、再び小さな寝息を立て始める。



天界では神様がその小さな寝息を静かに見守っていた。

「……物語は、動き出したな」



それがどれほど長く、どれほど騒がしいものになるのか。


この時はまだ ――

始まったばかりだった。



天界も、人間界も、今はまだ静かだ。

けれど確実に物語は動き出している。


それがやがて神様と天使たちを巻き込む

“とんでもない日々”へと

繋がっていくことを――



この時はまだ誰も知らなかった。




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神様、あの子の仕様書が分厚すぎます あかり(天界管理番号A-29) @akari_world

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