SOFT RUIN

夜光めん

第1話

 僕が目を覚ましたのは、柔らかな光に包まれた部屋だった。


 
 窓の外には、少し霞んだ朝の空。鳥のさえずりが遠くから聞こえてくる。
 この世界に来たばかりの僕にとって、すべてが少しだけ非現実的で、でもどこか懐かしい感覚だった。


「おはよう、ちゃんと寝られた?」


 彼女はいつものように、静かに微笑みながら立っていた。
 僕は無意識に頷き、言葉を探す。
「うん、ありがとう……」


 部屋の空気は優しくて、時間の流れも穏やかだった。

 
 昨日までの僕の記憶が、まるで違う人生のように遠くに感じられる。



 彼女はそっと、テーブルに朝食を並べる。
 その手つきの滑らかさに、僕は何度も安心をもらっていた。


「今日は、少し散歩に行こうか」
 彼女の声は柔らかく、でも確かな誘いの響きがあった。
 僕は自然に頷く。何も疑わず、ただ彼女について行く。


 森を抜け、小川のせせらぎを聴きながら歩く。
 草の香り、遠くで揺れる花々、光の粒。
 僕は思った。
 ――この世界に来て、よかったのかもしれない、と。


 でも、胸の奥に小さな違和感がくすぐるように残った。
 まだ何なのかは分からない。でも、その感覚は、僕だけのものではなかった気もした。


 彼女はそんな僕に気づくこともなく、柔らかく笑っている。
 それだけで、僕は世界が穏やかで、美しいものだと信じられた。


 午後の光が差し込む森の小道を歩くと、葉の間から斑に光が揺れた。
 風がそよぐと、木々のざわめきが小さく反響する。


「ここ、いつ来ても静かだね」
 僕が口にすると、彼女は小さく笑った。


「そうね。でも、静かすぎると少し寂しくなるかも」
 その声は優しいのに、ほんのわずかだけ――胸の奥に冷たい感触が残った。
 僕は気のせいだと思う。森はいつもこう静かだった。


 道の途中で、小さな泉を見つけた。


 
 水面は鏡のようで、僕たちの姿がゆらりと揺れる。

 
 でも水面に映る僕の影は、どこか本物より少しぼんやりしているような気もした。
 僕は指で水面を触り、気泡が弾けるのを見て笑った。


 
「変だな、影が少し変に見える…?」


 
「影は光の加減でそう見えることもあるわ」


 
 彼女の声は柔らかく、説得力がある。
 だから僕はそれ以上深く考えず、また微笑んだ。


 歩きながら、僕は思った。
 この世界に来て、迷っても、困っても、彼女がそばにいてくれるなら、きっと大丈夫――と。



 森の小道を歩きながら、僕は小さな鳥の羽根を見つけた。
 白くて、光に透けるような、柔らかい羽根。
「ねえ、これ……落ちてるよ」
 僕が拾うと、彼女は少し目を細めて眺めた。


「きっと誰かの羽根ね。小鳥はたくさんいるから」
 そう言いながらも、彼女の指先は羽根に触れず、空中で止まったまま。
 僕は特に気にせず笑った。



 夕暮れが近づくと、森の光も柔らかくオレンジ色に染まった。
 僕は少し足を止めて、空を見上げる。


「こんなに静かで、平和な場所、初めてかも」
 彼女はそっと僕の肩に手を置いた。
「そうね。でも、静かすぎる場所には、少しだけ秘密が隠れているかもしれないわ」


 その言葉は軽い冗談のように聞こえたけれど、胸の奥に小さな違和感を残した。
 僕はまだそれに気づかない。ただ、柔らかい光に包まれて、今日も一日が終わると思っていた。

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