2本目 青いリンドウ

 俺の朝はでっかい黒いかたまりに布団を剥がれることからはじまる。今日も扉の向こうから、のそのそと黒い影が近づいてくる感覚と一緒に「わふっ」と音がして、胸の位置まで掛かっていた布団が徐々に太ももの辺りまで剥ぎ取られ、布の端は場外へ放り出される。

「クロ、わかった。起きるよ」

 目を開けると視界いっぱいに黒いわさわさとした毛が広がる。その黒い塊の正体は飼い犬のラブラドールレトリバーのクロだ。朝のランニングが日課となった頃、ついでに散歩も済ませてやるかと思って連れはじめた。それからクロは、俺より先に起きて布団を剥がしに来るようになった。

「ランニングしてからご飯な、ちょっと待ってろ」

 身支度を終え、もうすっかり日常と化したマスクをつけたら、クロにリードをつける。スマートウォッチで30分タイマーを開始してから玄関の扉を開けると、外は雨だった。しまった、天気予報を確認するの忘れてたな。

「クロ、レインコート着るぞ」

 玄関の棚からグレーの犬用レインコートを取り出し、クロに着せる。今日の散歩はクロの乗り気にもよるが、短時間で済ませたいな。今の時間帯の雨は弱いが地面はそれなりに濡れているから、タイマーの設定はとりあえず15分に変更して様子を見てみるか。今日の分の朝のランニングはお預けだな。夕方に雨が止んでいれば、その時の散歩のついでにランニングをしよう。

「よし、クロ行くぞ」

 再び外を出て、クロの様子を見る。嬉しそうに尻尾を振っているところを見ると、今日の散歩もいつも通り乗り気らしいな。まあ、俺の布団を剥がしに来たんだからそりゃそうか。

 家が見えなくなるところまで歩いた頃、見慣れた後ろ姿がいたから声を掛けた。

千羽ちは

 呼びかけると、俺たちの前を歩いていた千羽は振り返る。まさかこんな朝早くに知人に会うとは思ってなかったんだろうな。「驚いた!」という感情が顔にしっかりと出ている。相変わらず分かりやすいな、お前は。

「おはよう、れい。今日の散歩は早いね」

「こいつに言ってくれ」

「ふふ、そんなに早く散歩に行きたかったんだね」

 家族以外にはあまり懐かないクロだが、千羽が悪い人じゃないと分かるとよく懐くようになった。特に最近は、俺が見つけるよりも先にクロが千羽の匂いを見つける。さっきだって、こいつが急に止まって辺りをきょろきょろと見渡すから千羽に気づいた。あーあー、しっぽをブンブンと振っちゃって。二人して分かりやすいやつらだな。

「電車の時間があるから急がないと」

「ああ、そっか」

「ごめんね、クロ。また今度ね」

 千羽は、ぽんぽんとクロの頭を軽く撫でたらくるっと背を向け駅に向かおうとする。普段は俺の横をぴったりと言いつけ通り歩くクロでも、千羽との別れが名残惜しいのかリードをピンッと張って後を追おうとする。......仕方ねぇな。

「千羽、途中まで一緒に行こう」

「え、いいの?雨、パラパラ降ってるよ?」

「いいよ、クロが一緒に居たがってる」

「そっかあ」

 千羽は満面の笑みで「クロ、一緒に行こう」と嬉しそうにクロを呼ぶ。まあ、いいか。雨の様子を確認しながら行くか。見慣れた家並みの隙間を伸びる細く曲がりくねった路地を二人と一匹で歩く。そろそろ、家に明かりという命が芽吹いて、生活音で鼓動を刻みはじめようとする頃、千羽が話し出した。

「今日ね、懐かしい夢を見ちゃって」

「うん」

綾歩あゆみと初めて出会った時の夢でね」

「綾歩か」

「うん。そのせいかな......。」

「何が?」

「あー、3ヶ月切ったんだなって......」

「......。あぁ、誕生日か。おめでと」

「あはは、ありがとう。

「「............。」」

「1年て、早いね。」

「......だな。」

 雨はパラパラと弱い。それなのに、灰色の雨雲のせいで日の出が遠く感じて、この雨は止むことがないように思えた。家並みはまだ眠っている。濃くはっきりとした家並みの影の中を歩く二人の足跡だけが聞こえる。

「今日、マスターのとこ来る?」

「ああ、行けたら行く」

「それ、来ないやつじゃーん」

「可能性を純粋に言葉で示しただけだ」

 細い路地の切れ目が見える。そこまで行けば、視界がふっと開けて道路に出る。

「じゃあ、駅すぐそこだからここまでで」

「あ、あぁ」

「クロも、また今度会いに行くね」

「じゃ」

 笑顔で手を振ったら、千羽は俺たちに背中を向けて駅に向かう。今度はちゃんとバイバイだ。千羽の背中が建物の角と重なって完全に見えなくなったら、さっきまで歩いてきた道を振り返る。クロはまだ建物の角を見つめている。

「クロ、帰ろう」

 俺の呼びかけに振り向くが、まだ歩み出そうとしない。俺を見つめ返すクロのその黒い瞳には全てお見通しなんだろうな。人より何倍も効く嗅覚か、または何倍も聞こえる聴覚か、動物ならではの野生の勘的なやつなのか、俺の気持ちはクロには全てバレている。そんな気がするくらい、クロは俺の代わりに行動する。

「ああ、そうだな。お前のおかげだよ」

 何が『クロが一緒に居たがってる』だ。久しぶりに会えたのに、たった数分の会話で離れることを一番名残惜しく思ったのは俺だろ。

「ありがとな。さ、家に帰るぞ」

 いつ報われるとも知れない、あるいは一生報われることがないかもしれない、手に負えないこの気持ちを俺はどうしたいのだろうか―――

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愛してる。だから、幸せになってほしい 常葉実弘 @mitsurutokiha

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