第2話 小さな予感

 旧校舎の図書室は、時間の止まったような静けさに満ちていた。


 陽光が埃っぽい空気を通り抜け、古い木製の本棚に淡い影を落としている。


 棚には黄ばんだ本が無秩序に並び、かすかな紙の匂いが漂う。


 窓辺の光が、床に散らばった埃の粒子をキラキラと浮かび上がらせ、まるで小さな星屑のように見える。


 空気は少しひんやりとして、校舎の喧騒から隔絶されたこの空間は、俺の隠れ家だったはずだ。

なのに今、目の前にいる少女——奄美江珠那の存在が、すべてを不思議な緊張感で満たしている。


 初めての告白に心臓の鼓動が耳に響き、弁当箱を握った手が汗ばむ。

というか、頭の中が混乱し、言葉が出てこない。


「…は?」


 ようやく俺の声は、低く掠れて漏れた。

喉が乾き、視線を彼女の顔から逸らす。


 埃の舞う光の中で、彼女の瞳が俺をまっすぐ捉えていた。


 彼女は小さく息を吐き、細い指で前髪を少し直す。


 指先は白く繊細で、動きはゆっくりと優雅だ。


 メガネのレンズが光を反射し、瞳に小さな輝きを加える。


「私と付き合ってください。金本秋先輩」


 彼女の唇がわずかに微笑の形を作り、頰の赤みが少し濃くなる。


「…待って…急すぎるんだけど…。なんで俺? 俺みたいなインキャのボッチを…」


 俺の声は震え、心の中で自嘲が渦巻く。

鏡を見なくてもわかる、自分の冴えない姿。


 クラスで目立たない、友達ゼロの俺が、なぜ?

彼女は首を少し傾げ、黒髪が肩で柔らかく揺れる。

視線を俺の目に合わせ、淡々と続ける。


「まぁ、当然の疑問ですよね。では、説明しますね。実は中学時代から先輩のことが好きでした。きっかけは…ただの一目惚れでした」


 彼女の指が弁当箱の蓋を軽く叩き、リズムを取る。


「学校の廊下で、ふと目が合った瞬間、心臓が止まるかと思いました。あの時の先輩の、静かで優しげな表情が忘れられなくて。毎日、先輩を思いながら自慰に耽っていました」


 一目惚れ…。

というか、自慰に耽るとか、当たり前みたいに言ってるし…。


 俺の心臓が早鐘のように鳴り、頰が熱くなる。


「…一目惚れって…」


 言葉を絞り出す俺の声は、弱々しい。

視線を床に落とすと、埃の粒子がゆっくり舞っているのが目に入る。


 彼女の瞳が、少し細くなる。

まるで内緒話を共有するように、声を少し小さくする。


「いえ、知っていますよ。先輩があの女…改め、桜さんと付き合っていたことも」


 彼女は前髪を指で軽く巻き、視線を少し逸らす。

頰に赤みが差すが、表情は平然としている。


 いきなり元カノの名前が出て、俺は息を飲む。

心臓が一瞬止まり、喉が詰まる。


「…どうしてそれを知ってるの? 誰にもバレないようにしてたのに…」


 秘密の関係だったはずだ。

あの慎ましいデート、ひっそりとしたキス…すべてが、誰にも知られていないと思っていたのに。


 彼女は肩を軽くすくめ、黒髪が肩でサラリと音を立てる。


 視線を戻し、まるで当たり前の事実を述べるように。


「シンプルに先輩のことをストーカーしてましたから。気になって、先輩の後を何度か尾行したら、時々あの女の家に行ったり、逆に先輩があの女の家に入っていくのを、数回見かけたので。窓からシルエットが見えたりして、なんとなく察しました」


 異常な内容なのに、声は穏やかで、無邪気さえ感じさせる。


 ストーカー…? 俺の背筋に寒気が走る。

心の中で警鐘が鳴るが、彼女の態度は全く動じない。


 むしろ「当然のことですよ」とでも言うような、柔らかな視線を向けてくる。


「すごく幸せそうで羨ましかったんです。毎日、想像しては苦しくなりました。本当、あの時期は地獄でしたよ。何本か、神社の木に藁人形を打ち込んだりしましたし」

「…普通にヤバいんだけど…」


 怖いのに、なぜか引き込まれる。

彼女の瞳が、俺を捕らえて離さない。

彼女は小さく首を傾げる。


「そうでしょうか? 好きになったら、それくらいするのは自然じゃないですか?」と返す。


 話題を変えようと、俺は息を整えて尋ねる。


「…それで、なんで今は…こう…」

「インキャになったのかですか?」

「そう…端的に言えば。中学じゃ、学校のマドンナって呼ばれてたのに」


 あの時の彼女を思い出す——風に揺れる髪、優雅な歩き方、人を惹きつける笑顔。

俺も一度見ただけで、心を奪われた。


 彼女の表情が、少し曇る。

瞳に影が差し、唇を軽く噛む。

指でメガネのブリッジを押し上げ、息を吐く。


「正確には戻ったというのが正しいですがね。あれは、ハリボテでした。小学生の頃、私は本物のインキャだったんです。アニメ大好きのオタク少女で、髪はボサボサ、眼鏡かけて、クラスで目立たない存在でしたし、友達も少なくて、毎日アニメの推しキャラに没頭してました」


 彼女の声は静かに回想を始める。

視線を窓辺に向け、陽光が彼女の白い肌を照らす。


「その推しキャラが美男子で、その人に釣り合う女子になるために、自分磨きに目覚めたんです。ダイエットして、髪を整えて、メイクを覚えて…高学年になる頃には、学校一の美少女って言われるようになりました。胸も中1でかなり発達してましたし、その結果、私の自己肯定感と承認欲求も満たされました。…が」


 彼女は前髪を指でいじり、続ける。


「頭は平均以下、運動神経もダメ、歌も下手くそ。全部、見た目でカバーしてただけなんですよ。なのに、周りは完璧を求めてくる。『珠那ちゃんは頭いいよね?』『スポーツも得意でしょ?』って。そんな当たり前に応えようとして、相当な努力をしました。本当、息が詰まりました。疲れました。だから、高校に上がるタイミングで、昔の自分に戻したんです。楽でいいですよ、これが本当の私。それも込みで好きになって欲しいんですがね」


 肩を少し落とし、楽になったような溜息をつく。

話の流れで、彼女は再び本題に戻る。


「ということで、付き合ってください。まぁ、先輩が昔の私がいいというなら、昔の自分に戻ることもやぶさかではないですが。元彼女さんのように」


 唇に遊び心のある笑みが浮かぶ。

元カノのように——インキャから陽キャへ変わったことを指していた。


 俺は混乱しながら、尋ねる。


「…というか、なんでこのタイミングだったの? 高校入ってすぐじゃなくて、今?もう桜とは付き合ってないことはとっくに気づいていたでしょ」


 心の中で疑問が膨らむ。

彼女のストーカー行為を思い出し、警戒しつつも、好奇心が勝る。


 彼女は少し目を細め、謎めいた笑みを浮かべる。


「そうですね…理由はいくつかありますが、今は秘密にしておきます」


 声に、少しからかうような響きが混じる。


 というか、まだ突然のことに、頭が回らない。

ストーカー、変身、告白…全てが現実味がない。

心の中で葛藤し、俺はひとまず答えを出す。


「…付き合うとかは…その…今は考えられないかな。急すぎるし、俺みたいなのと付き合っても…」


 声が小さくなり、視線を床に落とす。

彼女は全く気に留めていない様子で、淡々と返す。


「そうですか。それは残念です」


 表情は変わらず、瞳にわずかな失望がよぎるが、すぐに立ち上がる。


 黒髪が肩で揺れ、地味なスカートが軽く翻る。

動きは優雅で、静かな図書室に小さな音を立てる。


「それでは、友達からお願いします。お望みならば、先輩後輩の関係からでも良いですが」


 視線が優しく、拒否しにくい。

唇に穏やかな笑みが戻る。

…友達か。


「…うん、それなら…」


 そうして、俺たちはスマホを取り出し、連絡先を交換した。


 彼女の細い指が画面を滑らかに動かし、QRコードを読み取る。


 互いの名前を登録する間、彼女の視線が時折俺の顔を覗き込む。


 交換が終わると、彼女は再び座り、弁当箱を開ける。


「では、食べましょう。先輩のお弁当、何が入ってるんですか?」


 俺の弁当を覗き込み、穏やかな笑顔を向ける。頰の赤みが残り、目が少し輝いている。


 図書室の静けさの中で、俺たちは一緒に弁当を食べ始めた。


 唐揚げの香りが広がり、彼女の弁当は丁寧に作られたおにぎりと野菜中心——彩りよく、家庭的な温かさを感じる。


 会話は少しずつ、ぎこちなく始まる。

アニメの話、過去の思い出…。


 意外に共通点が多く、時間はあっという間に過ぎた。

埃の舞う光の中で、彼女の笑顔が、俺の心を少しずつ溶かしていく。


 まるで昔のように。

この出会いが、何をもたらすのか——まだ、わからない。


 だが、胸に小さな予感が芽生えていた。

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『元:インキャで現:陽キャ』の元カノと『元:陽キャで現:インキャ』な後輩 田中又雄 @tanakamatao01

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