【第二章:旅の礎】 第一話:都市への第一歩

 三日間、歩き通しだった。幸いにも、エルフの森でレネアが教えてくれた道は安全で、途中で魔物や猛獣に襲われることはなかったが、それでも疲労は積もっていた。雨ざらしの草むらに敷いた毛布。冷え切った朝露。鳴きやまぬ虫の声と、夜明け前の冷え込み。リオ・ナカムラは足を引きずるように進みながら、内心でうんざりしたように呟いた。


「……もう、野宿はこりごりだな」


 その横でクララ・モリスが頷いた。頬にうっすらと埃がついており、髪も旅の風に乱れていた。彼女の目の下には疲労の色が滲んでいる。


「森を出てから、もう三日。歩くたびに足の裏が痛い……。早く、ちゃんとしたベッドで眠りたい」


 獣道のような細い林道は、やがて幅広い石畳に変わっていった。道の両脇には低い石垣が現れ、ぽつりぽつりと民家の影が見える。畑の世話をする老夫婦、木箱を運ぶ少年、そして手押し車を押して往来する商人たち。道沿いには柵が増え、井戸のある広場では子どもたちが水を汲んでいた。旅の疲れにぼんやりとした目でその風景を眺めていたリオは、ふと気づいたように口を開いた。


「人が……増えてきたな」

「都市が近いってことよ。もう少しのはず」


 クララの言葉に、リオは黙って頷いた。言葉にするほどの元気も残っていない。道の途中では、レネアから託された“ミルティスの導き”が、進むべき方角に応じて淡く光り、方向を指し示していた。ときおり分岐のある道でも、迷うことなく進むことができたのは、この精霊の力のおかげだった。やがて、道の傍に石造りの祠が現れた。その手前には、二本の柱を横木でつないだ木製のアーチが立っていた。異世界の装飾が施されているが、どこか神域の入口を示すようにも見える。その向こうに、壁のようにそびえ立つ城塞都市の外壁が見え始めた。


 サヴェルナ。


 空を裂くように伸びるその壁は、様々な脅威にさらされる自然と、秩序ある世界との境界線のように見えた。そして、ついに門に辿り着いた。門をくぐった瞬間、リオとクララは目を見張った。そこには、人間だけではない、多種多様な人々の姿があった。背の低いがっしりした体躯に長い髭をたくわえたドワーフ、褐色の肌に茶色や漆黒の髪を持つダークエルフ、そして数は少ないが、レネア達と同じエルフ――耳の形や服装、肌の色や瞳の光までがまるで違う。街路を行き交う彼らは、それぞれに違和感なく混じり合い、異種族間のやり取りもごく自然に交わされているようだった。


「……すごい。人間だけの街じゃ、ないんだ……」


 リオがぽつりと呟く。クララは一歩進み出て、目を輝かせた。


「なんて多様なの……」


 かつて森で見た静寂の秩序とは正反対の、喧騒と活気に満ちた混沌。それは二人の想像をはるかに超えた光景だった。呆然としながらも、二人はその雑踏の中へと足を踏み入れていった。目前に立ちはだかる城門は、近づくにつれてその圧倒的な威容を増していた。石造りの外壁は風雨にさらされながらも堅牢に保たれ、鉄で補強された扉には重厚な装飾が刻まれている。リオはしばし足を止めたまま見上げ、低くつぶやいた。


「……これが、“人の築いた砦”か」


 クララもまた、視線を門の上に向けたまま頷いた。


「想像してたより、ずっと……大きい」


 旅の疲れも、ほんの一瞬だけ遠のく。その場の喧噪や足元の石畳の冷たささえ、現実から切り離されたかのようだった。だが、感嘆も束の間だった。すぐに、言葉の壁という現実が立ちはだかる。門の内側には、街に入る者を監視する衛兵たちの詰所があり、全身を鎧で覆った衛兵が、通行人一人ひとりに声をかけ、手にした羊皮紙や、胸元に下げた金属片を確かめている。通行人の中には、革に金属を縫い付けた札を差し出す者もいれば、装飾の施されたペンダントを見せる者もいた。形も素材もまちまちで、何を示すものなのか、リオには判断がつかない。


 やがて、リオたちの番が来た。衛兵が何かを叫ぶ。言葉の響きは硬く、抑揚も少ない。ミリアの印がわずかに反応し、リオの脳裏に「止まれ」「証明」「見せよ」といった断片的な意味だけが浮かんだ。クララが身を強張らせ、リオは懐から封筒を取り出した。


「これ……紹介状です」


 言葉の途中で詰まりながらも、リオは手紙を差し出す。衛兵は目を細め、封蝋を割った。羊皮紙を開いた瞬間、空気が変わった。衛兵が羊皮紙の文面を追いながら、唇の動きとともにぽつりぽつりと口を開いた。ミリアの印が断片的に意味を拾い、リオの頭には「森」「賢者」「名」「来た」「お前たち」――そんな単語だけが浮かんでくる。


「……レネア……森……お前たち……来たか」

「はい」


 衛兵はしばし紹介状の文面を黙読した後、眉を動かしながらリオたちを見た。何かを言いかけたが、難しい顔で言葉を飲み込み、ゆっくりと短く、話し始めた。


「通行……可能。術理……学校、許可……これで」


 ミリアの印が不完全に意味を伝え、それでもクララは言葉の意図を察したのか、小さく息を吐いた。


「通って良い……ってことね」


 衛兵は無言で頷き、門の横を指差す。手振りで通りの方向を示し、もう一度、今度は単語だけで告げた。


「進め。塔……西」


 石畳に馬車の車輪が軋む音が響いていた。大きな門を抜けた途端、空気が変わった。広場には人、人、人。屋台の煙が立ち上り、香辛料の匂いが鼻を突く。乾いた石の匂いに混ざるのは、焼いた肉の香り、甘い果実の匂い、そして雑踏の熱気だった。リオは足を止め、辺りを見渡した。背の高い建物が並び、幌付きの荷車が行き交う。路上では芸人が曲芸を披露し、子どもたちが笑いながら走り回る。まるで絵巻物を広げたような光景に、思わず息を呑んだ。


「……すごい。これが、レネアが言っていた“サヴェルナ”なんだ……」


 後ろからクララ・モリスが声を漏らした。エルフの森から歩いてきた二人にとって、これは初めての大都市だった。


「まずは宿屋を探さないとな……」


 門を抜けた先、通りの一角に見えた軒先に看板のかかった建物――宿屋らしきその店に、リオは足を踏み入れた。帳場にいた中年の男に声をかけてみるが、返ってきたのは早口の異世界語。ミリアの印が反応し、いくつかの単語は頭に浮かぶ――「泊まる」「湯」「鍵」――が、全体の意味まではつかめない。クララが眉をひそめた。


「やっぱり、ミリアの印じゃ限界があるわね。エルフとは意思疎通できたけど……人間の文明は言葉の構造が複雑すぎる。慣用句や婉曲表現が多いから、印の翻訳が追いつかないのかも」


 リオが軽く頷いた。


「それに、エルフたちはゆっくり話してくれたしな。こっちが理解できるように気を遣ってくれてたんだと思う」


 二人は顔を見合わせ、小さくため息をつく。その後もしばらく、門近くの街路を行き来しながら、二人はそれらしい建物を探し回った。だが、衛兵が言っていた『塔の西』がどちらを指すのか、印の翻訳ではわからない。標識も読めず、通行人に尋ねても返ってくるのは複雑な言い回しばかりだった。次第に人混みと情報の多さに呑まれ、二人は大通りから少し離れた小道の入り口に腰を下ろした。


「……参ったな。さっきの衛兵、たぶん親切に教えてくれてたんだと思うけど……」

「情報量が多すぎるのよ、あの言語。しかも、こっちは疲れ果ててるし……」


 そこへ、鈴の音のような笑い声が聞こえた。


「困ってるようだね、旅の方々」


 顔を上げると、小柄な老婆が立っていた。日焼けした肌にしわが深く刻まれ、背には籠を背負い、干した薬草や手作りらしい布細工を並べた行商のようだった。


「……わかるのか?俺たちの言葉」

「わかって当然だろ。ミリアの印を持っておる者の言葉は、わしらにも伝わってくる。問題は、お前さんたちが聞き取れるかどうか……ルナリエルの言葉なら、少しは通じるだろうと思って声をかけたのさ。あの森の方から来たのだろう?」


 老婆はにこりと笑い、軽く背中の籠を揺らした。


「名乗りが遅れたね。わしはジルダ。この辺りでは“薬草婆やくそうばば”なんて呼ばれてる。名は忘れても、そう言えば通じるだろうさ」


 老婆の言葉は、まるでエルフたちと話した時のように明瞭に頭に響いた。ミリアの印がしっかりと意味を伝えてくれている。クララが顔を輝かせた。


「助かります……今、本当に困っていて。街に入れたのはいいけど、術理学校も、宿も……」


 少し声を落として、クララは続けた。


「私たち、他の国から来て、貨幣価値も単位も何も分からないんです」


 ジルダは一瞬まばたきをしたあと、あきれたように鼻を鳴らした。


「何にも知らないんだね……言葉も分からないし、どうやって生きていくつもりだったんだよ、この国で」


 クララは苦笑し、リオは気まずそうに頭をかいた。


「……まあ、いいさ。若い者は無鉄砲でなくちゃね」


 ジルダはそう言って再び微笑むと、通貨の説明を始めた。


「この国じゃ、銅貨と銀貨の交換は少しややこしい。目安としては、小銅貨四枚で銅貨一枚。銅貨十枚で銀貨一枚くらいと考えればいいけれど、実際には八枚から十三枚くらいまで、そのときどきで変わるんだよ」


 一度、指で小さな円を描く。


「ただ、金貨だけは別よ。銀貨十枚で金貨一枚、そこはずっと変わらない」


 そう言ってから、付け足すように続けた。


「街中の普通の宿屋なら、一泊あたり銀貨一枚前後。相場としては、そんなところかね。まずは一休みだ。いい宿を知ってる。少々古いが、悪くないよ」


 老婆に案内され、彼らは街の外縁部――下町のような区域に足を踏み入れた。細い路地に並ぶ古びた木造家屋の一つに辿り着くと、老婆は手慣れた様子で戸を叩いた。最初は宿の主人が渋い顔を見せたが、老婆が何事かを囁くと、主人はしぶしぶ頷き、簡素な部屋を貸してくれることになった。交渉のあと、ジルダはふたりを脇に連れ出し、宿賃の話をしてくれた。


「ここは一泊で銅貨五枚だよ」


 レネアから渡された革袋には、金貨が二枚、銀貨が十五枚、銅貨が数十枚詰められていた。受け取った時にはあまり意識していなかったが、後になって数え直してみて、その額の多さにあらためて驚かされた。手渡されたとき、革袋の重みに二人は一瞬驚いたものの、旅支度の一部だろうと深く考えなかった。だが、ジルダから一泊の宿代が銅貨五枚だと聞かされたとき、その感覚は変わった。


「……金貨二枚って……」


 リオが呟き、クララも目を丸くする。


「……一泊で銅貨五枚ってことは、あれ……?」


 数秒の沈黙のあと、二人はそっと顔を見合わせた。


「銀貨十五枚に銅貨まで……二ヶ月は暮らせるくらいの額だったのね」


 クララがそっと革袋を握りしめた。だが、ふと首をかしげる。


「……ねえ、リオ。そもそもエルフって、貨幣なんて使ってなかったわよね?あの森の中に商人なんていなかったし……なんでレネアが、こんなにたくさんの硬貨を?」


 リオも思わず、うん、と頷いた。


「確かに……俺たちだって、中身をちゃんと見たのは、ついさっきだしな。レネアは何も言ってなかったし……」


 それを聞いていたジルダが、まるで天気の話でもするような調子でつぶやいた。


「そりゃあ、行き倒れの旅人から拾ったんだろ」


 二人が同時に固まる。


「えっ……!?」

「エルフは、普段の暮らしであまり金を必要としない。森で生きる分には、ほとんど使わないからね」


 ジルダは肩をすくめて、続けた。


「まあ、森の奥には昔から色んな者が迷い込むしね。命を落とす者も少なくない。あの民らは物欲とは縁遠いが、遺品をぞんざいには扱わないよ。ちゃんと保管しておくのさ。……で、役に立ちそうな時が来たら、使う」


 ジルダはケロリとした顔で語るが、リオとクララの顔には一気に青ざめた表情が広がった。


「……それって、もしかしてこの金貨……」

「……誰かの遺品……?」


 二人は同時に革袋から手を離し、なんともいえない表情で目を合わせた。


「ま、ありがたく使わせてもらうといいさ。その方が、使われずに眠るよりはよっぽどましだろ」


 ジルダの軽い口調に救われたような、でもやっぱり背筋の寒くなるような、微妙な沈黙がその場を包んだ。


「二ヶ月は、節約すれば余裕で暮らせる。だからといって気を抜くんじゃないよ。相場を知らない旅人なんて、騙されるために歩いてるようなもんだ。いいかい、知らないものには値を聞く、そしてすぐには払わない。それだけでも違うさね」


 ジルダの目が細くなる。


「この街の人間が皆、親切とは限らない。信用も、貨幣も、慎重に使うこと」


 築五十年以上の木造建築。原始的な上下水道はあるが、浴場もトイレも共同。壁は薄く、寝台も古びていたが、屋根と鍵のある部屋があるだけで、二人には十分だった。その夜、街外れのその下宿で、久々にまともな床に横になりながら、リオはひと息ついた。


「……なんとか、今日一日は乗り越えたな」


 クララが微笑を返す。


「ええ。でも、明日からが本番よ。生活も……言葉も、そして学校もね!」


 ミリアの印があるとはいえ、会話のすれ違いや誤解は日常茶飯事だった。笑って済ませられる失敗もあれば、深刻な勘違いになりかねないこともある。それでも、旅は確かにここから始まっていた。


 後になって振り返れば、下宿での最初の数日は混乱と失敗の連続だった。ミリアの印があっても、言葉の壁は完全には越えられなかった。リオは、朝市で「これは焼いて食べると旨い」と言いたかっただけなのに、肉屋の主人に『火をつけろ』と受け取られ、騒ぎになりかけた。クララは、洗濯を頼もうとして“下着”という単語をうまく訳せず、誤って「脱いでくれ」と伝えてしまい、洗い張り屋の女主人に追い出されかけた。


 笑い話で済むことばかりではなかった。一度、リオのうっかりした言葉選びが街の衛兵との誤解を生み、連行されかけたことさえある。ジルダに助けられるたびに、二人は頭を下げ、そして少しずつ“この街の歩き方”を学んでいった。言葉の使い方、振る舞い、買い物の手順――そのすべてが新しい。そうして少しずつ、サヴェルナの生活が“日常”になっていった。


 ジルダとの縁はその後も続いた。二人はジルダの行商の手伝いをするようになり、荷物を運んだり品物を整えたりして、幾ばくかの駄賃を受け取っていた。ミリアの印の助けは相変わらず必要だったが、会話の中で何度も聞いた単語や表現は徐々に身につき、少しずつ言葉も通じるようになっていった。そろそろ二ヶ月が経つ頃には、リオもクララも、街の大通りから外れた路地を一人で歩いても、最低限困らない程度には馴染んでいた。

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