【第一章:博物館の企画】第四話:森の射手

 突きつけられた槍の穂先に、リオとクララは動けずにいた。足の位置も変えられない。胸の奥で息が詰まり、吐く量を測るように呼吸を抑える。


 鋭い音がした。直後、目の前のコボルドが喉を押さえ、体を折る。膝が地に触れ、前のめりに倒れた。残る個体が声を上げ、周囲を見回す。別の方向から矢が飛ぶ。一体が倒れ、間を置かず、さらに一体が崩れた。短い時間に三体が地に伏すと、残りは散って林へ退いた。


 音が消えた。リオとクララはその場に立ったまま、視線だけを動かす。槍を向けられていた位置から、まだ離れていないことに気づく。背後の葉が揺れた。風の流れとは合わない。木陰から三人が出てくる。灰緑の外套をまとい、弓を背負っている。距離が縮むにつれ、尖った耳と白い肌が見えた。人の輪郭に近いが、同じではない。


 先頭の一人がクララの前に立ち、短く言葉を発する。音は柔らかいが、区切りが分からない。クララは首を横に振る。視線が彼女の耳元に落ち、次に服へ移る。胸から足元まで、ゆっくりとなぞる。Tシャツとジーンズに、しばらく留まった。後ろの二人と短く言葉を交わす。二人が同時に懐へ手を入れる。金属が触れ合う音がした。彼らは懐からペンダントのようなものを取り出し、一人がクララの首に、もう一人がリオの首に手早くそれをかけた。


 ペンダントは革紐に吊された青い石で、その中央には見たことのない曲線的な文字が刻まれていた。後にそれが“ルナリエル語”という古代の言語であり、“ミリアの印”と呼ばれる魔道具の印章だと知ることになる。異種族間で交渉や取引などの意思疎通を補助するために用いられるものだ。その効果によって、言葉は耳ではなく、意味として脳裏に浮かび上がってくる。声や言語の響きに左右されず、意味だけが届く。


「え……あの、ありがとう?」


 リオがそう口にすると、先頭のエルフは彼に視線を向けた。


「……越境者、か」


 リオとクララは顔を見合わせ、頭を下げた。


「本当に、助けてくれてありがとうございます」

「命を救われました」


 三人のエルフは短く視線を交わす。


「我はサエラン」

「私はカルナ」

「そして私は……リィリス」


 三人はそれぞれ名を名乗った。リオは胸に手を当てて応じる。


「俺はリオ。リオ・ナカムラ」


 クララもすぐに続いた。


「クララ・モリスです。さっきも言ったけど、本当にありがとう」


 サエランはリオの顔をじっと見た。淡いブラウンの瞳と、やや濃いブラウンの髪色を確かめるように視線を走らせ、無言のまま弓を構える仕草をした。


「お前は……瞳と髪の色が濃い。ダークエルフかと思って、射つところだった」

「や、やめてくれ……」


 リィリスが声を立てて笑い、言葉を挟む。


「冗談に決まってるでしょう。サエランは、むやみに射ったりしないわ」


 カルナも頷いた。


「……あなたの髪と目の色、かなりダークエルフに近い。肌の色は似ても似つかないけどね」


 クララがリオの肩を軽くつつく。


「気をつけてよね。“射たれる”リオくん」


 リオは肩をすくめた。


「エルフ流の冗談ってやつか……笑えないな」


 サエランは鼻を鳴らし、視線を森の奥へ向ける。


「今度は、射つかもしれん」


 間を置いて、続けた。


「……冗談だ」


 サエランは少し間を置いてから口を開いた。


「伝承では、昔、エルフは一つだったとされている。森に生きる民としてな」


 ダークエルフと呼ばれる者たちも、その中に含まれていたという。


「だが、ある時、森を離れる選択をした者たちがいた。平地へ出て、土を耕し、鉄を扱い、交易を広げた。自然と折り合いをつけるより、人の手で道を切り拓くやり方だ」


 サエランは、傍らの古木に手を置いた。


「その話は、我々よりはるかに長く生きた者たちから聞き継がれている。歌や語りとして残っているものだ」


 平地の陽射しは強く、木陰はない。火と金属の煙が立ちこめる場所で生きるうちに、外へ出た者たちの姿は、少しずつ変わっていったとされる。


「肌の色や髪の色、体つきもな。長い時間が経てば、同じではいられない。今も森に残っているのが、我々だ。外へ出た者たちの末裔が、ダークエルフと呼ばれている」


 サエランはそれ以上を語らなかった。そして手を水平にして振った。リオたちは意味が分からず、顔を見合わせる。サエランは小さく息を吐き、低い声で言った。


「……ついてこい、だ。通じぬか」


 そして周囲に目を走らせる。


「静かにしろ。戻ってくるかもしれない。この場所は、まだ安全ではない」


 リオとクララは顔を見合わせ、黙って頷いた。そのまま、エルフたちの後を追う。歩き出して間もなく、クララが口を開いた。


「あの……さっきから、いろいろ訊きたいことがあるんだけど……」


 リオも続く。


「今の話も気になるし、他にも……」


 その言葉を遮るように、サエランが短く言った。


「“シャドウリングの歌に耳を貸すな”」


 クララが眉を寄せる。


「……何、それ?」


 サエランは答えず、歩みを止めなかった。少し遅れて、カルナが静かに口を開く。


「森にいると伝えられているものよ。歌や囁きで興味を引き、近づいた者を逃がさない」


  それだけ言って、サエランは口を閉じた。クララは一瞬目を丸くし、やがて小さく息を吐く。


「なるほど……“好奇心は猫を殺す”、ってことね」


 リオが肩をすくめた。


「どの世界にも、似た戒めはあるんだな」


 後ろを歩いていたリィリスが、くすりと笑う。


「生き物の名前は違っても、言いたいことは同じ、ってことね」


 一行は足を止めることなく、森の奥へ進んでいった。その少し後ろで、リィリスとカルナが小声で言葉を交わす。


「サエラン、急に黙ったわね」

「さっきまでは、そこそこ話していたのに」

「気難しいところはあるものね」

「……でも、ああいう距離の取り方しかできない人なのよ」


 どこかくすぐったそうに、リィリスが微笑んだ。


 やがて林は深い森へと変わり、枝葉が空を覆っていく。苔むした巨木の根元には、見慣れない菌類や、青白く光るキノコが点在していた。透明な羽を持つ小さな生き物が花の周りを漂い、草陰では毛に覆われた多足の生物が、一行の気配を窺っている。奇妙な鳥の鳴き声と、風に揺れる枝の音が、途切れることなく続いていた。さらに奥へ進んだ先で、視界がひらけた。


 太くそびえる幹を持つ巨木が何本も並び立ち、その中腹から高所にかけて、複数の木にまたがるように木造の住居が築かれている。枝と枝を繋ぐように吊り橋が渡され、上空には控えめな明かりが点っていた。リオは、一瞬、子どもの頃に見た樹上の小屋を思い出した。だが、すぐにその考えを打ち消す。ここにあるものは、遊びの延長ではない。彫刻が施された梁や、絡み合う草花の配置には、意図と手入れが感じられた。


 地上では、白銀の毛並みを持つ中型の四足獣が、静かに草を食んでいる。鹿にも似た細身の体つきで、体高は人の胸ほど。頭部には淡く光る房毛があり、長い尾がゆったりと揺れていた。ルナリス・シルヴァと呼ばれる生き物だ。


 リオとクララは、思わず足を止めた。言葉は出なかった。一行は、森の中央にある広場へと至る。そこには、周囲の樹々よりも高い位置に、大きな樹上の住居が築かれていた。次の瞬間、枝葉の間から、ひとりのエルフが姿を現した。躊躇のない動きで地に降り立つ。若い女性のようだった。彼女の視線が向けられた途端、場の空気がわずかに引き締まる。


「わたくしはレネア。この森の守人のひとりです」


 彼女はそう名乗り、リオとクララを見据えた。


「あなたたちが、この森の均衡を乱す存在かどうか。確かめさせてもらいます」


 レネアは目を閉じ、胸元のペンダントに指先を触れた。風がざわめき、淡い光が彼女の周囲に集まる。足元で、小さな草花が芽を出した。その様子を見ていたクララが、声を落として言う。


「……魔法、ですか」


 レネアはゆっくりと首を振った。


「いいえ。霊唱術は“魔法”とは異なります。魔法が術者の意志で力を捻じ伏せるものなら、霊唱術は精霊と対話し、彼らの助力を得るための“祈り”なのです。森の呼吸に耳を澄ませ、風の声に心を開き、精霊の返答を待つ――その一連の儀は、自然との深い調和の上に成り立っています」


 クララが首をかしげると、レネアは言葉を続けた。


「魔法とは、意志の力で世界に働きかけ、力を命じるもの。術者が主であり、力は従うべきものとして扱われます。しかし霊唱術は違います。我らエルフは精霊たちに命じることはしません。霊唱術は、森や風、水、光といった自然の精霊たちに祈り、願い、耳を傾け、その返答を受け取る術なのです」


 クララは驚いたように目を見開いた。


「……命令じゃなくて、お願い、なんですね」

「そのとおり。精霊は意志を持つ存在。強要されることを好まず、むしろ耳を澄まし、心を開く者にのみ応えてくれます。だから霊唱術は“祈りの術”とも呼ばれます」


 レネアの周囲では、まだ光の粒がそよ風のように舞っていた。リオとクララは、その神秘的な光景にただただ見入るしかなかった。


「意思ではなく、調和の中に宿る力――それが霊唱術なのです」


 リオとクララは息を呑んだまま、静かに頷いた。


 エルフたちによって簡素な食事が振る舞われた。木の実や果実をふんだんに使った献立で、野趣に富んでいながら、どれも洗練された味がした。やがて食後の茶が振る舞われ、レネアがふと微笑んで口を開いた。


「あなたたちは……年の頃は十代かしら」

「はい。十九歳です」


 クララが頷いた。レネアはやや首を傾げた。


「十九……その年齢なら、人間ヒューマンとしてはもう充分、一人前と見なされる頃ですね」


 リオは首を振って言った。


「いえ。僕たちの世界では、二十一歳が成人として認められる感覚です」


 レネアはしばし考えるように瞳を細め、そして静かに続けた。


「私たちエルフは、百年以上を経てようやく成人と見なされます。そして、その後も長い時間を生きます。八百年から千二百年……それが私たちの寿命です」


 クララは目を見開いた。


「そんなに……?」


 リオも呆然としたように息を漏らす。


「僕たちなんて、長生きしても百年ちょっとですよ」


 クララが苦笑交じりに言う。


「じゃあ、私たちって、エルフから見れば……」

「……短命の種族に映るかもしれませんね」


 レネアはゆっくりと首を振った。


「けれど、どんな命も、それぞれに与えられた時間を生きています。長さではなく、その時がどれほど真摯で、輝きに満ちているかが大切なのです」


 リオとクララはその言葉に、深く頷いた。


「……それで、レネアさん」


リオが静かに口を開いた。


「僕たちは、どうしてここに来たんでしょうか」


 レネアは視線を森の彼方へと向けた。


「分かりません。けれど、時折、異なる世界からこちら側へと来る者がいるのです。私たちは彼らを“越境者”と呼びます」


 クララが目を見開いた。


「じゃあ、私たちみたいな人、他にも……?」

「ええ。頻繁ではありませんが、確かに存在します。きっと、あなたたちの世界にも、逆にこちらから越えた者がいたのでしょう」


 クララがはっと息を呑んだ。


「……じゃあ、“エルフ”が出てくる神話や伝説って、私たちの世界にいた“越境者”を見た誰かが……」


 リオが言葉を継ぐ。


「実際に、そういう異世界の存在を見た誰かの記憶が、語り継がれた結果かもしれない……?」


 レネアは、その推測を否定も肯定もせず、静かに微笑んだ。

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