レンブラントの残響

敷島トウ

レンブラントの残響

1642 / 2026 Rijksmuseum, Amsterdam

 空気は重く、湿っていた。

 運河から立ちのぼる澱んだ水の匂いに、家畜の呼気と煤けた火薬の臭気が絡み合い、街全体を分厚い膜のように覆っている。


 運河沿いの石畳は、降り続いた雨の余韻を湛え、ぬらぬらと黒光りしていた。そこを、市民自警団の男たちが、それぞれの思惑と矜持を胸に秘めながら行進していく。

 重い軍靴が水を跳ね上げるたび、不規則なリズムが運河の壁面に反響し、夕暮れの静寂を乱していた。


 一六四二年、アムステルダム。


 隊列は、まだ完全な秩序を得ていない。

 中央では、黒い正装を纏ったフランス・バニング・コック隊長が、赤の飾り帯を誇らしげに揺らし、手袋越しの手で前方へ鋭い指示を飛ばしている。その隣を歩く副隊長は、黄金色のコートに身を包み、手にした長槍パルチザンを垂直に保とうと神経を尖らせていた。

 背後からは、合流しようとする男たちの喧騒が押し寄せる。革のベルトが擦れる音。銃身を磨く布の音。高く掲げられた軍旗が、風を孕み、重たい羽ばたきのような音を立てて翻る。


 その、熱を帯びた混沌の只中に、彼女はいた。


 黄金のドレスを纏った少女。

 周囲のタールのような闇を、そこだけ無理やり引き裂いて現れたかのような、異質な輝き。腰に吊るした白い鶏は、歩調に合わせて力なく揺れ、真珠の首飾りが細い喉元で冷たく、青白く光っている。


 不可解なのは、彼女がその場にいる理由ではなかった。

 彼女を取り巻く「世界」が、あまりにも明確に彼女を拒絶していることだった。


 すぐ脇を、銃に火薬を詰める男が足早に通り過ぎる。背後では、ドラムを叩く男が力強くバチを振り下ろし、その衝撃に驚いた犬が激しく吠え立てている。

 これほどまでに眩い存在が、手の届く距離にいながら、男たちは誰一人として彼女を見ようとはしない。


 肩が触れ、衣装の裾が泥を共有してもおかしくない距離。

 それでも彼らの視線は彼女を透過し、ただ前方にある「出動」という目的だけを、無機質に射抜いていた。


 さらに、物理的な摂理を否定する違和感があった。


 広場を照らす夕暮れの光は、隊長の差し出した手の影を、副隊長の白いコートへと鋭く刻みつけている。男たちの足元には、長く、重苦しい影が伸びていた。

 しかし、黄金に輝く彼女の足元にだけは、あるはずの影が存在しなかった。


 彼女はそこにいる。だが、そこにいない。

 彼女だけが、この一六四二年の時間軸から切り離され、存在の根拠を失ったまま、現象として喧騒の隙間に浮遊していた。


「……また、聴こえる」


 誰かの独白。

 高く掲げられた軍旗が風を孕む音でも、幾本もの槍が触れ合う不穏な軋みでも、ドラムの重い連打でもない。


 その声の主を捉える前に、感覚が急速に置き換えられていく。

 湿った土の匂いは、空調によって管理された無臭へと変質し、石畳の冷たさは、滑らかな寄木細工の床の感触にすり替わった。


 一六四二年の喧騒は、額縁という名の冷たく透明な境界線の向こうへと押し戻される。


 ――アムステルダム国立美術館、名誉の間。


 あとに残されたのは、静止した巨大なキャンバスと、耳の奥に居座った誰の叫びともつかない不快な残響だけだった。


 そこに、誰かがいたのか。

 答えのない問いだけが、展示室の冷えた空気の中に静かに置き去りにされた。

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レンブラントの残響 敷島トウ @tou_shikishima

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