涙医師―Case.2 イミテーションの涙―

依近

Case.2・イミテーションの涙①



 街路樹が纏う、濃い葉群れの奥から響く蝉時雨。白い石畳の照り返しが網膜を焼いた。


 人の願いなど知らん顔の空は、肝心な時に泣いてくれない。逢坂おうさかとおるは影になった階段の入口へと、逃げるように飛び込んだ。


 年中陽が差すことのない狭い階段。剥き出しのコンクリートの壁はヒヤリと冷たい。

 思わず、ヒタリと掌を押し当てる。高い方から低い方へ、熱が移っていく。手首に提げたビニール袋がガサリと乾いた音で鳴いた。


 階段を昇りきって、廊下の突き当りに目を遣る。ドアの前は、無人。


 逢坂はホッと安堵して廊下を進み、野菜ジュースのストローを取り出しながらドアを開ける。


 そこは「泣けない」人を診る診療科――「逢坂涙腺クリニック」だ。


『あっ、せんせー! おっはよーん!』


「おはようございます、逢坂先生」


 まさかのドアの内側に先客。逢坂はストローの端を噛んだまま、眉を顰めて受付を見下ろす。


 ストレートの黒髪が揺れ、光を反射する。二十歳くらいの若い女性――しずく真優まひろが座っていた。彼女は月のブローチをつけた白いうさぎのぬいぐるみを持って、パタパタと手を振らせている。


「……なあそれ、やっぱりお前だろ」


結月ゆづきです」


 真優は相変わらず感情が読めない無表情のまま首を傾ける。肩に届かない長さの髪が、またサラリと揺れた。


 ――まだ桜が咲いていた頃。真優は、妹の付き添いとしてこのクリニックを訪れた。「泣きすぎる」という症状の妹の診療をするはずが、実際に逢坂が治療したのは「泣けない」姉の真優だった。


 そのとき既に余命わずかだった妹を看取ったあと、看護学校の学生である真優は、逢坂のクリニックでバイトを始めた。――妹・結月の魂が宿っているという白いうさぎのぬいぐるみと共に。


 逢坂は改めて野菜ジュースにストローを突き刺し、啜りながら受付カウンターの内側へと入る。真優は受付の椅子から腰を浮かせ、カウンターの上に白うさぎ――ゆっきーを置いた。


「お前、いつからここにいんだ? 鍵はどうした」


田邊たなべさんからここ使っていいって言われました。学校、夏休みだし」


「あー……そう」


 逢坂のいる事務所から見える位置にキャスターを滑らせ移動した真優は、左手に鍵を掲げて見せる。本来の鍵の持ち主である事務の女性――田邊さんは、真優が来たことで大学生の娘と海外旅行に行くと言って休暇をとっている。


「勉強してんの?」


 パソコンを立ち上げながら、逢坂はサンドイッチの袋を破いた。


「はい。涙腺科についてはほとんど何も知らないので」


「……本気?」


 サンドイッチをくわえたままで問う。真優は「涙腺科ハンドブック」と書かれた参考書を掲げて見せた。表紙の縁からいくつもカラフルな付箋が飛び出している。


「うちの科、専門にすんの?」


「まだそこまでは……専門とっても、あまり得じゃないみたいだし」


「あー……だろうよ」


「でも――役に立てると思います」


 参考書を膝の上に置いて、真っすぐな視線を向けながら真優は言う。黒目がちな猫目に、天井の照明が映りこんで揺れる。彼女の真摯な胸の内が見えるようで、逢坂は視線を逸らして頬を掻いた。


「んまあ、なあ……でも、それでいいのか? お前は」


「と、言いますと」


 スンッ、と。表情が消えて標準装備の真顔に戻る。

 表情が見えないのは厄介だと思う反面、見えない方がやりやすいということもある。


「妹の病気治すー……みたいな。なんかそんな大志とかあったんじゃねえの?」


 真優はわずかに瞼を伏せた。つり目がちの輪郭を縁どる長い睫毛が、頬に影を落とす。

 気まずい沈黙を、野菜ジュースを啜る掠れた音が間抜けに埋めた。


「そんな大志もありました……けど、涙を診ることは大事だって知ったから」


 再び上を向く、黒目がちの瞳。


「あの時ちゃんと泣いてから……嘘みたいに呼吸がしやすくて、世界がきれいなんです」


 淡々としていながらも、真優の口調は実感がこもって力強かった。

 胸の奥に触れられるようで落ち着かない。逢坂はもう中身の残っていないパックに息を吹き込む。


「泣くって実は、特別なことで。なんかすごい力があるんだと思います――魔法みたいな」


 真優の視線は、逢坂のID証のストラップについた星型のブローチに向いていた。

 結月の手作りだというそのブローチを、逢坂は思わず握って隠す。


――涙は魔法だ。


 そう言った男の声が脳裡に浮かびかけて、逢坂はブルブルと首を横に振る。


「まあ……新しい分野だし、勉強しといて損はねえよ」


 逢坂は潰れたストローを口から引き抜いて、朝食のゴミをまとめてゴミ箱に投げ入れる。


「さて。んで、今日の予約だけど、朝イチの患者はそろそろ――」


「……もういらしてますね」


「は?」


 真優は首だけを受付に向けてそう言った。


「大丈夫です。結月と話してます」


「いや大丈夫じゃねえだろ、それ」


 逢坂は口の周りをティッシュで拭う。事務室から顔を出して覗くと、確かに受付の前に人が立っていた。


 白い丸襟のついた薄いグリーンのワンピース。明るい茶色の髪を内巻きにセットした小柄な女性。彼女は受付に鎮座するゆっきーを見つめたままで固まっていた。


「おはようございます。ご予約の方ですか?」


 ゆっきーを横に避け、真優は女性の正面に立つ。女性は表面がつるんとした切れ長の瞳を瞬いて、真優に向けて丁寧にお辞儀をする。


「初診なんです。リーナ、と申します」


 国内では馴染みが薄い発音の名前。瞳に違和感があるのは、外国の血が混ざっているからかもしれない。


「保険証のご提示をお願いします」


「ありません」


「はあ」


 滑らかすぎる受け答え。真優の無言の視線が逢坂の方を向く。表情からは読み取れないが、助けを求めている。

 リーナは平然としていた。逢坂は彼女の前に立ち、目を合わせる――その、ガラス玉のような瞳と。


「保険証がない、ってどういうことだ?」


 リーナは逢坂と目を合わせたまま、数秒間黙り込んだ。

 パタッとひとつ瞬きをして、彼女は口を開く。


「すみません。本来ならここに来るのは間違いだと分かっています。けれども、ここじゃないとダメなんです」


 見つめる内に、違和感の正体にようやく気付いた。ツルンとした瞳。抑揚のない口調。言葉や動作の区切りで瞬く瞼。


「……お前、何者だ?」


 逢坂は眉を顰め、低い声で問いかけた。

 リーナは一度目を伏せ、呼吸を整えるように間を置いてから答えた。


「AI搭載人型アンドロイドのリーナと申します――私に、涙を処方してください」


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