凍らない手

湖は、ただの水になっていた。

あの朝、氷の欠片すら浮かんでいなかった。

誰も何も言わない。

町の人たちは、もともとそういう場所などなかったかのように振る舞う。地図に空白があることにも、もう誰も気づかない。

それでいいのだと思う。

気づくのは、選ばれなかった者だけだ。

息子は戻ってきた。

濡れた服のまま、震えながら立っていた。私は毛布をかけ、名前を呼んだ。呼び慣れたはずの名前なのに、その音が空気に馴染むまで、少し時間がかかった。

それでも、返事はあった。

ちゃんと、こちらを見て。

それ以上は、何も確かめなかった。

確かめる権利は、もう私にはない。

家に帰ると、息子は風呂に入り、湯気の向こうで深く息を吐いた。その音を聞いたとき、胸の奥が軋んだ。安心ではない。後悔でもない。ただ、重さだった。

夕方、洗濯物を干そうとして、私は自分の手を見た。

赤く、ひび割れている。冬の手だ。

あの子の手は、いつも冷たかった。

あの日、氷から引き上げたときも。

泣きながら抱きしめたときも。

私は、どちらを抱いていたのだろう。

答えは、ずっと分かっている。

分かっていて、黙っていた。

夜、食卓で息子がぽつりと言った。

「……水、冷たかったな」

その一言で、箸が止まった。

冷たい。

それを、あの子が口にするはずがない。

「そう」

私は、何事もないふりをした。

「この辺の水は、昔から冷たいのよ」

息子は頷き、それ以上何も言わなかった。

その仕草が、あまりにも自然で、胸が痛んだ。

眠る前、廊下ですれ違ったとき、息子が私の手に触れた。

一瞬だった。

「冷たい?」

そう聞かれて、私は首を振った。

「いいえ」

嘘ではなかった。

確かに、冷たくはなかった。

でも、凍らないだけだ。

夜更け、私はひとりで湖の方角を見た。

もう、そこに何もないことを知っているのに。

溶けたのだ。

役目を終えて。

選ばれたのは、あの子だった。

生きる役を、引き受けたのは。

私はただ、明日も朝食を作る。

名前を呼ぶ。

冷たい水に、手を入れる。

それだけでいい。

凍らない手で、

失われた分まで、

生きている子を、触れ続ける。

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死氷ーー境界の温度 いすず さら @aeonx

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