慶安幽録
@gainpower
第1話 捕縛
拙者は、すでに敗れていた。
慶安四年。世に言う慶安の変が始まる前に、拙者――丸橋忠弥は幕府に捕らえられ、牢の中で拷問を受けていた。
拷問は、言葉よりも先に身体を壊す。名を吐け、数を言え、首謀は誰だ――同じ問いを、同じ調子で、しかし手法だけを変えて繰り返される。痛みは波のように来ては引き、引いてはまた来る。拙者は歯を食いしばり、数を数えた。息を数え、鼓動を数え、終わりのない夜を数えた。
今日の詮議が終わったのは、日が落ちきる少し前だった。手足は壁の環に固定されたまま、拙者は牢に放り込まれる。
放っておかれる。だが、それは救いでもあった。
朝まで手出しはない。そう知っているだけで、胸の奥に小さな隙間ができる。そこへ空気を送り込むように、拙者は静かに息をした。
どれほど時が経っただろう。足音が近づき、鉄の扉が鳴った。隣の牢に誰かが押し込まれる気配。
「だから言っているだろ! 戻る理由などない!」
甲高い声。若い。いや、少年だ。役人の低い声が応じる。人質だの、世継ぎだの、故郷へ勝手に帰るだのと、断片が耳に入る。ほどなく扉が閉まり、静けさが戻った。
しばらくして、少年が気づいた。
「おい、そっち。生きてるか」
拙者は黙っていた。ここで交わす言葉に益はない。だが少年は引かない。
「聞こえてるだろ。何をやったんだ。こんな所に入れられるほどの」
苛立ちが胸を刺した。拙者は己を律し、沈黙を選ぶべきだった。だが、痛みで磨耗した心は脆い。
「……拙者は、世の浪人のために動いた」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。
「自分の都合で駆け出すのとは違う」
少年は笑った。乾いた、しかし楽しげな笑いだった。
「へえ。立派だな。じゃあ、何人救えた?」
返す言葉がない。拙者は視線を落とした。
「松平信綱、来い」
少年の声に、周囲が一瞬凍る。ほどなくして現れた男は、静かな威圧を纏っていた。
「上様……」
信綱の声に、拙者は息を呑んだ。
少年は背筋を伸ばし、当たり前のように言った。
「情報ってのはな、こうやって引き出すんだ。
この者は、自分が何者かを語りたがっている。放っておけば、もっと喋る」
信綱は微かに笑みを浮かべた。
「流石は上様」
その瞬間、拙者は悟った。
隣の牢の口の悪い少年――将軍徳川家綱。
夜の底で、拙者の信じた正義が、静かに音を立てて崩れ始めていた。
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