第3.5話 【IF分岐:泥沼(バッドエンド)】

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【注意】

この話は第3話のIF分岐(バッドエンドルート)です。

本編とは異なる展開となります。

精神的に重い描写が含まれますので、苦手な方はご注意ください。


本編(正史)は第4話へと続きます。

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 ライカの赤い瞳が爛々と輝き、私の浅ましい迷いを嘲笑うかのように、無言のカウントダウンを刻む。

 数字が削れるたび、かろうじて残っていた自尊心が泥のように崩れ、生き延びたいという醜悪な本能だけが、心をどす黒く塗りつぶしていった。


「……分かった。お願いします」


 それは、懇願ですらなく、ただの降伏だった。

 自分の口から出たはずの声は、ひび割れた器のように冷たく、他人のもののように響く。

 言葉が形を成した瞬間、胸の奥で大切な何かが、二度と再生できない音を立てて砕け散った。


――もう、どこにも戻れない。


 すべてが手遅れだと理解したのは、魂が死に絶えた後だった。


「ふふ、賢明な判断ですわ」


 ライカは勝ち誇ることもなく、ただ当然の帰結を受け入れるように目を細めた。

 冷たい指先が頬を這い、顎を掬い上げる。

 抗う力は一滴も残っておらず、触れられた箇所から、個としての輪郭が溶けていく感覚があった。


「安心なさい。約束は守りますわ。

五百万の初心者セット一式。

確かにわたくしが買い与えてさしあげますわ。……ただ、渡す前に。貴女が何をするべきか、分かっていますわよね?」


 逃げ場のない言葉に、私は震える腕を自ら抑えつけながら、深く頷いた。

 胸の奥で、人間だった私が静かに死んでいく。

 激しい怒りも、引き裂かれるような悲しみも、もはや長くは続かない。

 あとに残るのは、肺に溜まる汚泥のような、重く濁った諦めだけだった。


 トラックのコンテナを出て、プレハブ小屋へと向かう。

 前を行くライカの背中を追う一歩一歩が、底なしの沼へ沈んでいく行為そのものだった。

 その境界線を、私は自らの足で踏み越えた。

 震える指が、自分の首に触れる。

 首輪は、先ほどよりも肉に深く食い込んでいるかのように、逃れようのない重さを放っていた。


 時間の感覚は、とうに消失した。

 窓のない、死体のような静寂に満ちた一室で、私は「契約」の真意を身体に刻み込まれた。

 代わりに購入をお願いした瞬間から、私の主権は私のものではなくなっていた。

 いつしか声は枯れ、ただ涙だけが、意味を持たぬまま溢れ続けた。


――違う。そうじゃない。


 本当に耐え難かったのは、暴力でも苦痛でもない。

 私は逃げなかった。拒まなかった。

 これは一方的な蹂躙ではなく、対価を求めて自らを差し出した「取引」なのだ。


 誇りを切り売りしてでも、明日の呼吸を欲した私。

 嗚咽と喘ぎ声が虚しく響き、昨日までそこにあったはずの「私」は、確実に削り殺されていった。

 助けを求める叫びは、喉の奥でヘドロのように固まり、誰に届くこともなく消えた。


――翌朝。


 鏡の中にいたのは、生気を失い、泣き腫らした目だけが生々しく濁った「何か」だった。

 首輪は、最初から皮膚の一部であったかのように、残酷なほど自然に肌に馴染んでいる。


 そこに映るのは、誇りを守れなかった敗北者。

 その惨めさを「仕方なかった」と正当化しようとする、救いようのない弱者。

 激しい吐き気が込み上げる。  それでも、心臓は卑しく鼓動を続け、私は――生きてしまっている。


「目を覚ましたようですわね」


「…………ライカ、さま」


 名前を呼ぶ唇が、呼吸をするように自然に敬称を求めた。

 心が壊れたのか、あるいは、飼い慣らされることを選んだのか。


「ふふふ。覚えていらして? 貴女、昨夜わたくしに一円で人権を売り渡しましたのよ」


「――え」


 突きつけられたのは、確かに私の筆跡で――いや、震えた手で引きずったような歪んだ文字で汚された、呪いのような書面だった


『人権譲渡契約書 価格:一円』


 契約書の隅には、小さく但し書きが記されていた。

 『本契約は五百万円の取引とは別個のものであり、甲(サテン)は乙(ライカ)に対し、自らの人権を一円で譲渡することに同意したものとする』


 ――五百万は、初心者セットの代金。

 人権は、一円。

 私は二つの契約を結んでいたのだ。


 それを見た瞬間、喉の奥から熱い酸がせり上がった。

 昨夜の記憶が、腐臭を放つ泥流となって脳裏を埋め尽くす。

 そうだ。私は、あんなにも惨めに、震える指先でペンを握りしめ、縋り付くようにしてこの紙に自ら署名したのだ。

 自分の名前が、まるで自分の首を絞める鎖の環に見える。


「……あ……っ」


 指先に残る、ペンを走らせた時の忌々しい感触。

 あの時、私は――あんな状況に置かれながら、地獄が決まったことに「解放される喜び」すら感じていたのではないか。

 その疑念が、胃を雑巾のように絞り上げ、私はその場に蹲り、止まらない嗚咽を漏らした。


「きちんと契約書もありますの。これから先、貴女はわたくしの所有物。せいぜい、壊れないように励むことですわ」


 守りたかった命は、誇りも希望もすべてを使い果たした抜け殻に過ぎなかった。

 生きるために心を売った瞬間、私は私を殺したのだ。

 これから先、どれだけ息をし、どれだけ歩き、どれだけ生を永らえても、それは「人生」と呼べるものではない。


――これは、終わった人生が、ただ呼吸を続けているだけの残骸だ。


 そして、この地獄には終わりがない。

 借金はトイチの複利で膨れ上がり続け。

 ライカの命令は、日ごとにより理不尽に、より屈辱的になっていく。

 

 逃げることはできない。

 首輪がある限り。

 心が壊れている限り。


 私は、生きたまま、永遠に沈み続ける。



バッドエンド【泥沼】

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