幸せはゆっくりと

雑多堂

第1話 幸せはゆっくりと

「はあ……はあ……はあ……はあ……」


 一定のリズムで吐息を漏らしながら、男は夜の街を走っていた。それなりに栄えている商店街。昼から夕方にかけて、ずっと人のざわめきで賑やかな通りも、人通りが少し疎らになって来ている。すれ違った人々の疲れた顔を見て、更に足を早めた。



『……今日は誕生日だから、早めに帰ってきてね。』


 脳裏に妻の顔が浮かんだ。ニコニコとパジャマ姿で見送りに来てくれた妻の言葉に返事をしていると、まだ三歳の息子がノロノロと玄関へと向かってきた。今日は妻も息子も休みだ。まだ寝てて良いよーと声を掛ける妻の横をすり抜けると、男のスラックスにしがみ付いた。そして、半分も開いてない目を男に向け、ぼんわりとした声で言ったのだ。『おたんじょうび……』と。



 冷たい空気が、荒く息を吐く度に肺の中を冷やす。それが心地いい瞬間もあったが、今となっては冷え過ぎて痛いだけだ。


──少しだけ、歩こうか──


 一瞬、頭にそんな甘えが過るが、自分の帰宅を待ってくれている家族を思い浮かべると、更に足に力が入った。あともう少し、後もう少しだ。この商店街通りを抜けたら、あとは10分も走れば着く。なるべく早く到着したい。本来ならば、既に夕食にありついてる時間だ。多分、二人は夕食に手を付けずに待っているだろう。テーブルの上に広げられた料理とケーキを前にして、食べるのを待ってくれている二人の姿を考えると、胸が痛んだ。


「……本当はもっと早く帰宅できるはずだったのに……」


 走り続けた足が重くなり、意味のない恨み言が口を突いた。


「こんな、寒い中、くそっ……」


 一度口にすると、続けて二言三言と暗い言葉が夜に溶け出した。白い吐息と共に吐き出された言葉は、軽やかに見えるが足を確実に重くしていった。

 今日、帰りがこんなにも遅くなったのは、中途採用で入ってきた新入社員のミスをフォローしたからだった。年上の新人は、ちょっとした手違いで、結果的にデータを破損してしまった。似たようなミスは、今回だけではなかった。どう足掻いても定時には帰れないだろう。絶望していると、男の事情を知る上司も復旧作業に加わってくれた。更に、「先に帰宅して良いよ」とまで言って貰えたが──青ざめた顔でキーボードを叩く新人を前に、教育係の自分が真っ先に帰宅するのは、違う気がした。

 結局、データは復旧したが、その分帰宅はこんなにも遅くなってしまった。新人に疲れの責任を押し付けたいが、最終的に残ると決めたのは自分だ。男は暗い気持ちを押し込め、足の動きに意識を戻した。地面を踏んで、足を上げて、地面を踏んで、足を上げて……。


 ──いつもと同じはずの灯りが、より温かく見える。灯りが近づくにつれて、足の動きを緩めていくと、こめかみと額から汗が流れ落ちた。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、より白くなった吐息を吐きながら、扉に手を掛けた。


「ただいま!ごめん、遅くなって……!」

「お帰りなさい、遅かったね、大丈夫?」

「うん、仕事が立て込んじゃって…」

「おかえりなさい!パパ!」

「優希!ごめんな、パパ、誕生日なのに遅くなっちゃって……。」

「ううん、だいじょぶ!」

「先にお風呂と着替えは済ませちゃったから気にしないで、さ、ご飯にしましょ。」


 パジャマ姿の妻に手を引かれ、リビングに足を踏み入れると、テーブルいっぱいの料理とケーキ、そして、息子が書いたらしいメッセージカードが飾られている。特別な金色の折り紙には、油性マジックでこう書かれていた。


パパ おたんじょうび おめでとう!


「先月からずっと楽しみにしてたもんね、お祝い出来て嬉しいね。」

「うん!パパ!プレゼントもあるからたのしみにしててね!」


 ニコニコと祝ってくれる二人の姿に、疲れも澱んだ気分も吹き飛ばされながら、手を洗いに洗面台に向かう。後ろからは二人の楽しそうな声が追いかけるように聞こえてくる。

 子供が産まれた時、無意識に「自分は与える側になったんだ」と思い込んでいた。息子の誕生日を祝いこそすれ、息子にこうして祝われる側になるなんて、何故か思いもしなかった。成長という、当たり前の時の流れが、パパを「与えられる側」に戻らせてくれた。

 ふと、あの中途採用の新人が浮かんだ。今の所はミスの上塗りを繰り返しているが、その内、自分が彼に頼る日が来るかもしれない。


「まぁ、ゆっくり行こう。」


 帰り際、何度も頭を下げる新人の姿に一言掛けてから、ゆっくりと祝福で満たされた部屋へと足を向けた。

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