第32話 引く手 田中 篤
父と外食した時に、たまたま父と同じ病院に勤めている看護師さんグループと行き会って、そのまま飲み会に巻き込まれた時に聞いた話です。
話してくれたのは若い看護師さんでしたが、別の大きな病院の産科にいた時の話だそうです。
入ってすぐ、そのお姉さんの前にいた看護師さんがやめた理由を聞かされたんだそうです。
なんでも、赤ちゃんを落としちゃって。それで自信をなくしてやめちゃったんだそうです。だから、十分に注意するようにって。
幸い、赤ちゃんはごく低い位置からベッドの縁にあたってベッドの中に落ちたので、怪我もなかったし、親御さんも別に問題にしないでくれたそうなんですけどね。それでもやめちゃうなんて、よほどショックだったのかなあと思っていたら、すぐ、他の理由をこっそり聞かされたんだそうです。
やめた看護師さんが赤ちゃんを抱き上げた時、大人は他に室内にいなかったのに、後ろから髪をつかまれて、バランスを崩して赤ちゃんを落としてしまったんだって。それで、いつ同じことを繰り返すかわからない新生児室を怖がって、やめちゃったんだそうです。
赤ちゃんを落とすことはなかったけど、他にも、背中を強く押されたとか、そういう話をいろんな看護師さんから聞いたそうなんですね。
お姉さんもいやだなあとは思ったけど、夜勤の時間に起こるそうだし、大人が複数いれば大丈夫だってことは噂でわかっていたので、気をつけていたんだそうです。
けど、勤め始めて二ヶ月くらい経った頃、お姉さん、新生児室に一人で入ったんだそうです。
すっかりそんな話も忘れていたし、夜勤で人少なだったし。
お母さんの要望で、赤ちゃんを連れて行こうと抱き上げたところを、ぐっと、髪をつかまれて後ろに引かれたんだそうです。
ひっつめていた髪を、後頭部を鷲掴みにするようにつかまれて、咽喉そらされて、急に天井が見えて。
大人の、男の手と力だと思ったそうです。
赤ちゃんを落とさないように抱きしめて、力に抵抗して暴れようにも頭を上に持ち上げるようにしてつかまれていたので、動けない。 咽喉が反ってて声もうめき声しか出せない。視線だけを動かして、なんとかならないかと見えるところを見回して、で、見ちゃったんだそうです。
新生児室と廊下とを隔てるガラスに映る自分と、赤ちゃん。そして、誰もいない背後が。
途端に、今度は髪をつかんだまま、赤ちゃんを振り落としかねない強さでがくがくと揺らされて、犯人の目的は、赤ちゃんを落とさせることにあるんだと、お姉さんは思ったそうです。だからって、落とすわけにはいきません。必死で泣き出した赤ん坊を抱いて耐えていたら、急に投げ出されて。
赤ちゃんを前に抱いていたから、かばうのに、仰向けに倒れたんだそうです。つまり、正面に、犯人が見えるはずなんですね。
なのに、やっぱり、誰もいなくて。
すぐに同僚の看護師が部屋に入ってきて、その気配で犯人が逃げたって、わかったそうです。
お姉さん、髪もぐしゃぐしゃで、赤ちゃんは腕の中で大泣きしているし。で、同僚さんも何があったかわかったみたいで、助け起こしてくれながら、言ったそうです。
「大丈夫。落とさなければもう、起きないから」
って。
テスト・・・・・・?
実際、落としてやめた人は複数いたらしく、私は落とさなかったわよ、もちろんっ! と自慢する人もいたそうです。赤ちゃんが致命的な怪我をしたことはなかったらしいですけど、結局、お姉さんは今の病院の職をみつけて、すぐに退職したそうです。
語り終えると、語り部は一本の蝋燭の火を消した。
『百物語が終わるまで』
https://kakuyomu.jp/works/822139841307342761
の作中話は800字程度に縮小させました。よろしければ本作もお読みいただけますと幸いです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます