第3話:『断罪の広場』

広場の中央に座すそれは、もはや生命の理から外れた、暴力の塊であった。


人の数倍はあろうかという巨躯は、ねじくれた獣の角と、岩を削り出したような灰色の筋肉に覆われている。その顔には目鼻がなく、代わりに無数の処刑用鎖が皮膚を貫き、呪わしい装飾となって垂れ下がっていた。


地面に突き立てられた巨大な処刑斧は、これまで吸い上げてきた「色彩」を凝固させたかのように、赤黒く、そして重い。


案内人の冷ややかな声を思い出す。  


記憶の世界とは、時代も理も飛び越えた混沌の集積。


無縁墓地で眠る英雄たちも、今眼前にいる異形も、本来は交わるはずのない遠き時代の残照なのだ。 だが、この閉じられた記憶の中では、それらは等しく現実として牙を剥く。



男の足が、石畳の上で小刻みに震えた。絶望の密度が、空気を物理的な重圧に変えている。


断頭台の上、今まさに刃が落ちようとする少女の両親。そして、瓦礫の陰で枯れた声を絞り出し、救いを求めて泣き叫ぶ少女の姿。  


その光景が、男の脳裏にある忌まわしい記憶の蓋を無理やり抉じ開けた。


 かつての戦場。


自分はただ、死にゆく者たちの末路を画布に書き留めるだけの「傍観者」だった。


 どれほどの悲鳴を聞こうとも、どれほどの理不尽が目の前で行われようとも、男の手にある筆は救いのために振るわれることはなかった。ただ淡々と、終わった景色を塗り固めることしかできなかったのだ。


(……いや、もう、描くだけの男ではないはずだ)


圧倒的な死の恐怖の隙間に、針の穴を通すような、鋭く小さな覚悟が芽生える。  救いたい。 そのたった一つの、泥臭い願い。    


男がパレットナイフを強く握りしめた瞬間、煤けた鉄の表面が、かつてないほどの輝きを放ち始めた。


刹那、脳裏に凄惨な青の記憶が奔流となって流れ込む。


(——そこは、伝承の探求地「夜の学院」だった。 若き女性学者は、積み上げられた古文書の山に囲まれ、真理の欠片を繋ぎ合わせる日々に幸福を感じていた。 だが、その安寧はある日、唐突に終わりを告げる。


 探求の果てに誰かが触れた「禁忌」が、学院を内側から腐らせていったのだ。

その禁忌を開示した何者かが、学院の外側……境界の向こうから、無数の異形や魔物たちを無意識に呼び寄せてしまった。


美しい大理石の壁は黒く淀み、数千年の英知を刻んだ本棚は消えない業火に包まれる。 かつての友、共に探求を追った学友たちは、異形の群れに無慈悲に引き裂かれ、地獄のような高笑いと怒号が、かつての静寂を塗り潰していった。


 悔しい、憎い、無力な自分が——。  積み重ねた研鑽のすべてが灰に変わる絶望の中、彼女は忌まわしき魔術を呪いながら、燃える回廊を逃げ惑う。  その時、彼女の瞳に焼き付いた群れは、学友を貪り、知識を蹂躙する「鎖を纏った異形」の姿だった)


「……あ、あぁ……!」


 男は激しい眩暈とともに、現実へと引き戻された。


 目の前に立つ処刑人の姿が、女性学者が最期に見た「地獄の具現」と重なる。フラッシュバックする怒りと悲しみ。他者の絶望が、男の心臓を狂おしい速さで叩き始めた。


呼応するように、男の手の中で薄青く光っていたパレットナイフが変質していく。


煤けた鉄の刃は、星の輝きを閉じ込めたような、透明な結晶の杖へと姿を変えた。


男は、魔術など知る由もなかった。筆以外の道具を正しく握る方法すら、今の彼には定かではない。 だが、右手に握られた「杖」は、彼自身の意志を置き去りにし、異様な脈動を繰り返している。


 対する異形は、その青い輝きに覚えがあるのか、あるいはただ眼前の「獲物」が放つ抵抗の意志に触発されたのか。鎖に締め付けられた巨躯を軋ませ、岩のような足取りで地を鳴らした。理性なき殺戮者の本能が、ただこの男を断罪せよと吠えている。


「……どうすれば」


男は、流れ込んでくる学者の残滓に、その身を委ねるしかなかった。

知るはずのない術式。組むはずのない魔力の理。

借り物の知識が、男の腕を無理やり動かし、虚空に鋭い一筆を書き加えさせる。


刹那、杖の先端から、星の欠片を削り出したかのような水色の光が放たれた。  

それは鋭い**「つぶて」**となって空を裂き、一直線に処刑人の胸元へと突き刺さる。 着弾の瞬間、光は結晶が砕けるような音を立てて弾け、異形の分厚い皮膚を黒く焼き焦がした。


「グ、ォ……ォォオオ!」


異形が、地底から響くような呻き声をあげる。 その巨体が怯んで止まることはない。しかし、焼けた傷口からは黒い霧が噴き出し、放たれた魔術が確実にその「存在」を削り取っていることを示していた。


一撃を放つたび、男の脳裏には燃え盛る学院の焦熱が走り、視界が青く明滅する。 これは彼の力ではない。死者の絶望を燃料にした、残酷な模倣であった。


男の瞳から、次第に「生」の困惑が消えていった。 代わりに宿ったのは、燃える学院を見捨てた無力な学者の、どろりとした憎悪と怒りである。


恐怖は、怒りによって塗り潰された。男はもはや自分の意志で杖を振るっているのではなかった。学者の執念が彼の腕を操り、狂ったように幾度も、幾度も水色のつぶてを虚空に描き出す。 異形の身体に光の弾丸が次々と突き刺さり、肉を焼き、黒い煙を上げる。


だが、処刑人は止まらない。断罪者の進路に立ち塞がり、陶酔の表情で讃美歌を歌い続けていた狂人たちが、ゴミのように蹴散らされる。異形にとって、彼らさえももはや背景に過ぎない。跪く民衆を巨大な足で踏み潰し、あるいはその巨躯で薙ぎ払いながら、ただ獲物である男へと距離を詰めていく。血肉を震わせながら男の目の前まで肉薄した。


巨大な断頭斧が、天高く振り上げられる。 その影が男を完全に覆い隠した。死の刃が、重力と憎悪を乗せて振り下ろされる。


その刹那。 男の脳裏に、学者のものとは全く異なる、泥臭い「残滓」が閃光のように割り込んだ。


(——逃げろ。死にたくなければ、無様に、地を這ってでも、避けるんだ!)


それは、かつて戦場で死に物狂いに生き延び、誰に讃えられることもなく「逃げ延びること」のみを英雄的本能とした、名もなき弱虫の記憶。


意識よりも先に、男の膝が屈曲した。

足がすくむ暇すら与えない、生存への剥き出しの反応。


凄まじい風圧とともに振り下ろされた斧が、男の鼻先を掠め、石畳を爆ぜさせる。


異形は、自らの確信した一撃が虚空を切ったことに、目に見えて困惑し、そして「仕留め損ねた」ことを悔しがるように唸り声を上げた。


だが、回避した男の動きは止まらない。 低く沈み込んだ姿勢から、異形の懐へ、まるで滑り込むように杖を突き出した。


男は沈み込んだ姿勢のまま、手にした結晶の杖を、異形の胸元に深く穿たれた傷口へと突き立てた。


その瞬間、男の背後に立ち昇る幻影が、より鮮明に、より美しく狂い咲く。 それは燃える学院を背負った、若き女学者の姿。彼女の瞳には、かつての知性ではなく、すべてを焼き尽くすほどの純粋な「憎しみ」が宿っていた。


「……消えろ」


男の唇が、自分のものではない言葉を紡ぐ。 杖の先端に学者の怨嗟が凝縮され、眩いばかりの水色の光が異形の体内で荒れ狂った。内部から焼き、裂き、爆ぜる魔力の奔流。


「ガ、アアアアアアアアアッ!!」


異形は天を仰ぎ、耳を劈く断末魔を上げた。 その巨大な処刑斧が手から滑り落ち、石畳を砕いて転がる。巨躯が膝から崩れ落ちるが、その目は死の淵にあってもなお、眼前の男を殺さんと濁った殺意を燃やしていた。 異形の太い腕が、震えながら男の喉元へと伸びる。鋭い爪先が男の肌に触れるかという、その刹那——。


異形の瞳から光が失われ、その手は空を掴んだまま、沈黙した。


「……やった、のか」


男は荒い息を吐きながら、杖からパレットナイフへと戻りつつある鉄の感触を確かめた。目の前には、もはや動かぬ巨大な肉の塊。 広場には、依然として不協和音の賛美歌が響き渡っている。 生き残った狂人たちは、誰が死に、誰が生き延びたのかなど興味すらない様子だった。ただ、目の前で「死」という供物が捧げられたことに歓喜し、その歌声はより一層、熱を帯びて空に消えていく。


その喧騒の中、一人の少女が動いた。 彼女は自分を助けた男に目もくれず、痛めた足を引き摺りながら、一歩、また一歩と処刑台の上へと這い上がっていく。その視線の先には、もはや動かぬ二つの魂の残照があった。


男は、崩れ落ちた両親の魂へと這い寄る少女の背中を見つめていた。  


だが、そこには救いなどなかった。  


処刑台の上、今まさに断罪されようとしていた二つの姿は、男が道中で切り伏せた亡者たちと同じ、意識も理性も持たない抜け殻に過ぎなかった。 それはかつて両親であったものの残滓であり、もはや娘を抱き寄せる腕も、名を呼ぶ声も持たない。ただ、死という瞬間に縛り付けられただけの、色彩を欠いた肉の塊であった。


「お父さん……? お母さん……ねえ、起きて……っ」


少女は気づいていた。だが、気づきたくないのだ。 縋るように声を震わせ、反応のない抜け殻を揺さぶり、彼女は枯れた声で泣き続けた。その絶望の音色は、狂人たちの賛美歌に冷たく掻き消されていく。


その光景を見つめる男に、異変が起きた。 脳の奥底、学者の怨嗟が引いていくのと入れ替わりに、どこか遠くに忘れ去ったはずの**「自らの記憶」**が、ポロポロと剥がれ落ちていく感覚。 それは、パレットナイフで他者の人生を模倣したことに対する、残酷な代償だった。  


(……今、何を失った?)


幼い頃に見た空の色か。愛した誰かの温もりか。それとも、自分がこの神殿に呼ばれるに至った、あの決定的な絶望の理由か。  


崩れ落ちていく記憶の破片。しかし、今の男にはそれが「何であったか」さえ思い出せない。それがどれほど大切だったのかすら分からぬまま、名前すら思い出せない自分という存在が空洞になっていく恐怖だけが、男の指先を震わせた。


嗚咽する少女と、摩耗していく自分の魂。 絶望の広場に立ち尽くす男の背後から、不意に声が聞こえた。


「……救えたと思ったか。それとも、絶望が増えただけか」


振り返ると、そこには騎士ヴェニルが立っていた。 彼は兜の奥の冷徹な眼差しで、抜け殻に縋る少女と、異形の骸を見下ろしていた。


ヴェニルは、機能しなくなった片足を引き摺りながら、ゆっくりと男のそばまで歩み寄ってきた。金属の具足が石畳を擦る重苦しい音が、狂人たちの賛美歌を微かに割る。


ヴェニルは、異形の死骸の横で息を荒げる男をじっと見つめていた。その視線には、先程までの冷ややかな拒絶ではなく、どこか奇妙な重みが宿っていた。


「……だが見事だ」


騎士の口から漏れたのは、意外にも賞賛の言葉だった。


「数はもう覚えていない。貴公と同じように、この絶望に放り込まれ、抗おうとして、あの異形どもの餌食になった者たちを数多見てきた。なぜ私だけがこうして理性を保ち、座り続けていられるのか……それは私にも分からん。いや。きっと呪いのようなものだろう」


男は、その言葉の端々に漂う「既視感」を逃さなかった。 「貴方は……私がどこから来たのか、何者なのか、本当は何か知っているのではないか」


男の問いに対し、ヴェニルは「そうだ」とは答えなかった。ただ、兜の奥にある深い虚無を湛えた瞳で、じっと男を見つめ返した。その沈黙は、肯定よりも雄弁に、男の正体がこの世界の残酷な理に深く根ざしていることを物語っていた。男は、騎士が真実を握っていると確信したが、それ以上追求することはしなかった。今の自分には、その重すぎる真実に耐えうるだけの記憶が残っていないと、本能が悟っていたからだ。


ヴェニルは、やがて視線を男から外し、広場に乱立する絞首台へと移した。


そして、その台の傍らで両親の抜け殻に縋りつく少女へと、視線を落とす。鉄の面頬に隠されたその瞳には、かつて自分が救えなかった無数の命を数え上げるような、深い悲哀と同情の色が滲んでいた。それは騎士として守り抜けなかった世界への、拭いきれぬ後悔の残照のようでもあった。


「あの異形どもは、一匹ではない。国が滅び、兵士が己の責務を忘れ、人が狂気に身を委ねた時、奴らは湧いて出た。どこから来たのか、あるいは人の成れの果てか……それも今となっては瑣末なことだ。かつて蘇った英雄たちが、その身を捧げて奴らの数を減らしてくれたおかげで、今のほんの少しの、わずかな静寂がある」


騎士は一度言葉を切ると、初めて男と正対し、その重厚な甲冑の拳を胸に当てた。


「絵描きよ。貴公に、一つ頼みがある。悪夢の主を討ってくれないか」



◯テキストメモ【設定断片】◯


【探求の残照(夜の学院)】

かつて伝承の探求地と呼ばれた、美しき学院の記憶。


学院の壁一面を埋め尽くした書物は、禁忌の門が開かれたあの日、すべてが黒く淀んだ業火に包まれた。 知性は異形を退ける盾にはならず、むしろその輝きこそが、境界の向こう側に潜む飢えた獣たちを惹きつける餌となったのだろうか。


【若き女学者の怨嗟】

パレットナイフが変質した、透明な結晶の杖に宿る魂。


彼女が最期に抱いたのは、真理への愛ではなく、すべてを蹂躙した理不尽への底知れぬ憎悪であった。 美しき蒼の魔術は、描き手の腕を通じて放たれるたび、彼女が見た「燃える学院」の幻覚を、代償として男の脳裏に焼き付けるのだろう。


【名もなき弱虫の教訓】

英雄たちの影に隠れ、泥にまみれて生き延びた男の生存本能。


戦場において、誇り高く死ぬことは容易い。だが、無様に、臆病に、それでも「生きる」ことを選択し続けたこの記憶は、時としていかなる剣技よりも鋭く、死の淵から身体を突き動かす。 勇気とは、恐怖を知らぬことではなく、恐怖に震えながらも一歩を「回避」させる力のことだ。

不思議と絵描きによく馴染む。

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