第一部『黄金の残照と名もなき器』

第1話:『目覚め』

 意識は、底の抜けた深淵からゆっくりと浮上した。  


最初にしたことは、呼吸ではない。それは指先に触れる、冷たく乾いた粉末の感触を確かめることだった。


灰だ。  


見渡す限りの視界を埋め尽くす、色のない砂の海。  

男は、自らの体がその灰の山から這い出すのを感じた。関節は錆びついた機械のように軋み、肺が空気を吸い込むたびに、生命の残り香すらしない無機質な粒子が喉を焼いた。


「……あ、が……」


声にならない吐息が漏れる。  


自分が誰なのか。なぜ、この死に絶えた灰の荒野に横たわっていたのか。何も思い出せなかった。名前、年齢、愛した者の顔、それらすべてが、色のない帳の向こう側に置き去りにされていた。


男はよろめきながら立ち上がった。空を見上げても、そこにあるのは太陽でも月でもない。ただ、引き延ばされた灰色の膜が、世界の終わりを告げるように重くのしかかっている。周囲を見渡せば、地平の彼方まで、かつて森だったものや、街だったものの残骸が、かろうじてその輪郭を留めながら、収縮しているように見えた。


世界は今、まさに自らを畳み、虚無へと帰そうとしている。


その絶望的な情景の中で、唯一、意志を持って屹立する影があった。


巨大な神殿である。


男は、磁石に引き寄せられる砂鉄のように、その神殿へと足を向けた。


それは、気が遠くなるほど巨大な石の円柱が、等間隔に、そして厳かに並び立つ、壮大な石造建築だった。かつては白亜であったろう大理石の柱は、いまや灰に汚れ、激しい剥落に晒されながらも、天を衝くような威容を保っている。左右を囲む列柱の合間からは、死にゆく世界の薄明かりが差し込み、影と光の鋭い縞模様を床に描き出していた。


神殿の入り口を抜けると、外の世界とは異なる異様な空気が肌を撫でた。

床には、膝の高さまで届くほどの「白い光のモヤ」が、音もなく、たゆたうように広がっている。


男は足を止めた。それは雲のようでもあり、あるいは行き場を失った何千もの吐息を溜めた器のようでもあった。一歩踏み込むたびに、その光の霧は静かに波打ち、男の脚を伝わって不思議な振動を届けてくる。それは重苦しく、同時に鋭い、実体を持たない熱だ。

それが、かつてこの地に呼び起こされ、そして消えていった英雄たちの「戦いの残滓」であるということを、いまの彼はまだ知らない。


神殿の最奥、祭壇の前。そこに一枚の巨大な額縁が鎮座していた。  


それは名だたる大聖堂の壁面を埋め尽くす宗教画のように、見上げる者の首が痛くなるほどの高さを持ち、左右は視界の端を軽々と越えていく。


しかし、その「絵」は無惨に損壊していた。画布は至るところが裂け、絵具は剥落し、ひび割れた地肌が露出している。中心部には泥のような赤と、焦げ付いたような黒が混じり合っているが、もはや何が描かれているのかを判別することはできない。


その崩壊した色彩を目にした瞬間、男の網膜が灼かれた。


次の瞬間、目の前の絵画が歪み、別の光景が脳内に強制的に流れ込んできた。



 ——耳を劈く鉄の咆哮。焼け付く油の匂い。 男はかつて、ある王国に従軍する「戦場の画家」だった。過酷な戦火の中で、彼は戦う代わりに筆を握った。だが、思い出される風景に、王国の栄光などどこにもなかった。


視界を埋め尽くすのは、無惨に焼き払われた村々の残骸。黒煙を上げる家々、逃げ惑い、泥にまみれて泣き叫ぶ人々の顔。その傍らで、略奪した家財を積み上げ、高笑いを上げる兵隊たち。


男が描いたのは、人としての尊厳が焼かれ、色彩が失われていく記録だけだった。返り血を絵具に混ぜ、震える手で描いたのは、世界がいかに残酷で、救いようのない絶望に満ちているかという証明だった。


「……あ、あぁ……!」


男は頭を抱え、その場に膝を突いた。自分が絵描きであったことを、最も認めたくない形で思い出してしまった。脳裏を掠める景色は、どれもが忌まわしく、灰色の世界よりもなお暗い色彩に満ちていた。


その時だった。


男の苦悶に呼応するように、足元の白い霧が急激に一箇所へと集まり、渦を巻き始めた。霧は重なり合い、密度を増し、やがて一人の「兵士」の形を成していく。それは肉体を持たぬ、灰色の鎧を纏った人形のような影。感情も声もなく、ただ手にした錆びた剣だけが、明らかな殺意を持って男へと向けられた。


「……なっ!?」


兵士の影が、地を蹴った。  

男は咄嗟に身を翻したが、その動作はあまりに緩慢だった。振り下ろされた剣筋が男の肩を浅く裂き、焼けるような痛みが走る。  石畳に這いつくばる男。迫りくる二撃目。死を覚悟し、男が目を瞑った瞬間——足元の白い霧が、猛然と男の身体を駆け上がった。


肺に冷たい火が灯り、脳裏に「誰か」の怒号が響く。 意識とは無関係に、男の手は墓石に一緒に入れていた、唯一形を留めていたであろう煤けたパレットナイフを掴んでいた。その瞬間、画具は白光を放ち、鋭利な「刃」へと変貌を遂げる。


男の四肢は、彼自身の意志を離れて跳ね上がった。 鋭い踏み込み。空をなぞるパレットナイフの軌跡。それは男がかつて戦場で幾度も写生した、「英雄」と呼ばれた騎士の完璧な一閃のようだった。


閃光が兵士の影を貫く。  


その瞬間、パレットナイフを通じて、どろりとした「何か」が男の内に流れ込んだ。


(——腹を空かせた子供の泣き声、泥水に映る自分の情けない顔、死にたくない、まだ、死にたく……)


それは兵士の影の核となっていた、あまりに卑近で切実な、最期の記憶。 『魂の剥離』——。  敵の存在を構成していた「魂」という絵具が、男の内に無理やり引き剥がされ、採取されたのだ。当の本人は何が起きたのか分からぬまま、ただ他者の人生の断片に精神を掻き回され、激しい高揚と嘔気(はきけ)を覚える。


兵士の影は霧散し、再び神殿の床へと静かに沈んでいった。 ……静寂が戻る。


男は激しく波打つ鼓動を抑え、手に残る異様な感触と、軋むような腕の痛みに放心していた。自分の手足でありながら、自分ではない何者かが動かしていたような、悍ましい全能感。


「……痛みも、悔恨も、ここではすべてが色彩に過ぎません。目覚めたのですね、名もなき描き手よ」


不意に、上空から染み渡るような声がした。それは透き通るような、しかし感情の温度を欠いた、実体のない女性の声だった。


男は顔を上げた。しかし、神殿の闇の中に人影はない。ただ、床一面を覆う白い光——残滓のモヤが、彼女の言葉に呼応するように静かに波打っている。

男は不思議と次第に落ち着きを戻してきた。


「……ここは、どこだ」


「ここは無縁墓地。あらゆる時代の命と、その果ての記憶が、最後に行き着く、理から外れた終着駅……すべての死者が眠る神殿です。そして同時に、新たな目覚めを待つ、墓標でもあります」


案内人と呼ぶべき声は、淡々と世界の現状を説き始めた。外に広がる営みはすべて崩れ灰となり、自然は形を失って収縮していること。


「かつて、この神殿には多くの英雄たちが集いました。彼らはこの世界の命を繋ぎ止めるため、自らの魂を捧げ、あの祭壇にある絵画の修復の為に記憶の世界へと旅立っていきました。ある者は剣を、ある者は知恵を、その画布を癒やすための『絵具』として差し出したのです。ですが、彼らはもうここにはおりません。かつて勇名を馳せた者たちも、いまや神殿の床に降り積もる灰の一部に過ぎないのです」


彼女の声が、冷たく神殿を吹き抜ける。


「あなたの目覚めの前、最後の一人が旅立ちましたが、それから何年も経ち、帰還の兆しはありません。今、この神殿にいる生ける死者は、あなただけなのです。……だからこそ、あなたは呼び戻された。この終わりの時代に、世界を再び写し取る者として」


男は祭壇を見上げ、掠れた声で問うた。


「……これはいったい、何を写したものだ」


「あれは世界です」


その言葉は、冷酷なまでに断定的だった。 男は言葉を失い、ただ目の前の惨状を見つめた。至るところが裂け、剥げ落ちた地肌を晒し、泥と煤にまみれた巨大な板きれ。こんなに醜い、たった一枚の未完の絵が、これほどまでに残酷な世界だというのか。 そしてこの無惨な汚れを繋ぎ止めるためだけに、語るに足る数多の英雄たちが、抗う術もなく使い潰されていったというのか。


「画布が完全に空白に帰す時、外に広がる灰の荒野もまた、完全に消失するでしょう。あれは、唯一の楔なのです。描き手よ、あなたにはこれから外にある四つの墓標から記憶の世界へと飛び、この絵画を修復するための『材料』を調達してきていただきます」


「材料……? 何を、どこから持ってこいと言うんだ」


「魂。それだけです」


「魂だと? それをどうやって……」


「……」


 案内人はそれ以上の説明を拒絶し、沈黙をもって問いを遮った。納得などできるはずもなかったが、外に広がる灰色の絶望が、男に拒否権などないことを突きつけていた。 戦火の中で筆を走らせながら、こんな世界など滅びてしまえばいいとすら思っていたはずだ。だが、すべてが灰に帰した今、絵描きとしての執拗な未練が男を突き動かす。このキャンバスが完成した瞬間の景色を、一目見たい。


絵描きとしての心。最も嫌悪していた、くだらない意地だろうか。


「……一度は死んだ身か」


男は吐き捨てるように呟いた。


「……賢明な判断です、描き手よ。では、その足で、神殿の外にある墓標へと向かいなさい」


男が神殿の外へと歩み出そうとしたその時、案内人の声が追いかけてきた。


「足元に漂う白い霧に怯える必要はありません。それはかつて散っていった英雄たちの残滓……彼らが遺した記憶の澱です。何も考えなくて良いのです。先ほど示したようにこの残滓は、あなたが踏み入れた瞬間から、すでにあなたの魂を包み込み、力となっているのですから」


その言葉に呼応するように、白いモヤが生き物のように男の身体を駆け上がった。


それは温かな力などではなかった。肌を這う感触は冷たく湿り、脳裏にはやり場のない憤怒や、愛する者を残してきた後悔、志半ばで力尽きた者たちの地を這うような未練が流れ込む。救われぬ死者たちが、生者という拠点に泣きながら追い縋ってくるような、儚くも切実な感情の奔流。


男は何も言わず、自分の手を見つめた。細い指先の裏側には、今や自分のものではない「誰か」の必死な剣閃や執着が、澱のように沈殿している。彼は戦士ではない。だが、この未練をその身に宿し、他者の無念を「写し取る」ための器へと変質させられていた。


先ほどの感覚はこれか。


男は神殿を囲む巨大な石の墓標たちが並ぶ外へと出た。

その多くは修復され沈黙しているが、四つの墓だけは崩れ落ち、隙間から不気味な光が脈動している。


ふと、男の視線が一つの墓標に釘付けになった。ひと際激しく損壊した石塊。


そこからは、他とは比較にならないほど強く、鋭い光が溢れ出していた。  


男の足が、無意識に一歩出た。案内人の指示ではなく、色のない世界で唯一、目に刺さるような強烈な輝き。描くべき瞬間を見つけ出した時と同じ、絵描きとしての業の深い本能が、彼を突き動かしたのだろうか。


吸い込まれるように墓標の前に立ち、震える指先をその光る裂け目へと伸ばす。


触れた瞬間、鼓膜を劈くような耳鳴りと共に、世界が反転した。  


「描きなさい。それが、あなたの望まぬ真実であっても」


背後の声を最後に、男の意識は神殿から引き剥がされた。


名もなき絵描きは、一歩、記憶の深淵へと身を投げる



◯テキストメモ【設定断片】◯


【名もなき絵描きのパレットナイフ】

煤け、刃こぼれした、何の変哲もない鉄の画具。 神殿に目覚めた「描き手」が、かつて持っていたもの。

本来、それは敵を斬るためのものではない。 だが神殿の濃密な灰に触れたそれは、死者たちの執着を吸い込み、 実体なき「残滓」を現世に描き出す、呪わしい触媒へと変質した。 非力な絵描きの戦う術だ。それは常に、借り物の命の匂いがする。


【魂の剥離】

描き手がパレットナイフを以て行う、非情な採取の儀式。

敵の核を貫き、その生涯の「最も輝かしい、あるいは最も忌まわしい一節」を写し取る。 それは救済などではなく、無慈悲な略奪に他ならない。

剥ぎ取られた記憶は、虚無を埋める鮮烈な絵具となるだろう。 だが、描き手の内には、自分のものではない「死の叫び」が降り積もっていく。それは生命の高揚だろう


【無縁墓地】

理から外れた最果て、灰の海に唯一屹立する巨大な神殿。 あらゆる時代の命と、その果ての記憶が行き着く終着駅。

かつて万物の色彩を繋ぎ止めていたこの地も、 今や剥落し、死者たちの吐息が白い霧となって床を這うのみである。


ここには、かつて世界を癒そうとした無数の英雄たちが眠っている。 沈黙した墓標の列は、彼らの誇り高い敗北の記録である。

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