第1話:風の色を思い出す午後

午後の光は、どこか頼りなく

揺れていた。

ビルの壁に反射した白い光が、

歩道に淡い影を落としている。

その中を、遥はゆっくりと

歩いていた。


胸の奥には、まだ小さな棘の

ような痛みが残っている。

職場での行き違いは、ほんの

些細なことだった。

言葉が少しだけすれ違い、

相手の表情が曇り、

その曇りが自分の心にも

移ってしまった──

ただ、それだけのこと。


けれど、そんな“ただそれだけ”が、

思いのほか重く感じられる日も

ある。


信号待ちの列に並んだとき、

ふと風が吹いた。

冬の名残をわずかに含んだ風は、

頬に触れるとひんやりしていて、

それなのにどこか懐かしい温度

を持っていた。


遥は目を細める。

風が髪を揺らし、コートの裾を

軽く引っ張っていく。

その感触に、胸の奥の重さが

ほんの少しだけ浮かび上がる

ような気がした。


「……こんな日も、あるよね」


声に出すほどの強さはなく、

ただ唇の内側でそっと転がした

だけの言葉。

けれど、その小さな呟きが、

心の中の硬さを少しだけほどいて

くれた。


信号が青に変わり、人々が

歩き出す。

遥もその流れに身を任せるように、

ゆっくりと足を踏み出した。


歩道の先で、街路樹の葉が

揺れている。

午後の光を受けて、葉の一枚一枚が

淡い緑に透けていた。

その色を見ていると、遥はふと、

昔のことを思い出す。


まだ子どもだった頃。

理由もなく外に出て、ただ風の

吹く方へ歩いていった日々。

何も考えなくても、風の色が

心を軽くしてくれた。

そんな感覚が、確かにあった。


「風の色……」


思わず口の中でつぶやく。

もちろん、風に色なんてない。

けれど、あの日々の風は、

確かに“色”を持っていた気がする。

淡くて、柔らかくて、触れれば

すぐに溶けてしまいそうな色。


いつの間にか、そういうものを

感じる余裕をなくしていたの

かもしれない。


横断歩道を渡りきったところで、

また風が吹いた。

今度の風は少しだけ強くて、

遥の髪をふわりと持ち上げた。

その瞬間、胸の奥に沈んでいた

重さが、ほんのわずかに揺れた。


「……大丈夫」


誰に向けたわけでもない。

けれど、その言葉は確かに

自分のためのものだった。


ビルの間を抜ける風の音が、

どこか遠くで響いている。

その音に耳を澄ませながら、

遥は歩き続けた。


午後の光はまだ揺れている。

けれど、その揺れが少しだけ

優しく見えた。


風の色を思い出す午後。

その色は、まだ自分の中に

残っている──

そう思えたことが、今日の

小さな救いだった。


遥は深く息を吸い込み、ゆっくり

と吐き出した。

胸の奥の棘はまだ完全には

消えていない。

けれど、歩くたびに少しずつ形を

変えていく気がする。


風がまた吹いた。

そのたびに、心のどこかが

そっと揺れる。


遥はその揺れを受け入れるように、

静かに、けれど確かに前へと

歩き出した。

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