きみはとてもおそろしい

江山菰

きみはとてもおそろしい

 それは晩秋の暖かい日だった。

 私は朝早くから数軒の得意先を回っていた。年に二度の御用聞きだ。

 本当は、後輩と一緒に回るはずだったが、彼は今朝急に体調を悪くして休んでいる。交代要員も見つからなかったので、こうして私が女一人で田舎道に社用車を転がす羽目になった。

 とにもかくにも、努めて事務的な態度でさっくりと話を切り上げて、全部回り終えると昼どきだった。

 今日は弁当を持ってきている。風景だけはのどかなこの辺りで、帰社する前にランチをキメていく。

 きれいな小川を辿って里山の方へ行くと遊歩道がある。草蒸した砂利のスペースに車を停めて、緩やかな斜面を五〇メートルほど歩けば、藪が切れて見晴らしのいい小さな公園がある。ペンキの剥げたベンチは朽ちてささくれ、気を付けないとおしりに刺さりそうだ。そこへいつもエコバッグ代わりに持ち歩いているしじら織りの風呂敷を広げて座り、ランチバッグから麦茶の入った水筒と自分で作った弁当を取り出す。料理がそう上手いわけでもないから、大したものは入っていない。海苔シートに包んだじゃこ飯のおにぎりが二つと、小ぶりの保存容器に詰めたゆで玉子、昨晩まとめて作っておいた筑前煮、ほうれん草のおひたし。取り立てて言うこともない、地味な弁当だ。

 弁当を開いて、いただきます、とやった後、フィルムをくるっと剥がしておにぎりを一口齧ったところで、のんきな声がした。


「こんにちは、いい天気ですね」


 こまっしゃくれた子どもがおじさん風のしゃべり方をしているような、細い声帯から出る声。

 驚いて見回す。

 誰もいない。

 訝しみながらもう一度きょろきょろしてみても、何もいない。気のせいだったということにして、齧りかけのおにぎりをもう一口やろうとしたらまた声がした。


「ここですよ、ここ。こっちこっち!」


 視界の下の隅っこで何やら焦茶のものが動いたように見え、視線を落とすと、そこには毛むくじゃらのタヌキがいた。

 二度見、三度見してもやはりイヌ科のタヌキだ。後ろ足で立ち上がり、どこから手に入れたのか小さな笠をかぶり紺色の絣の着物を着ている。その目には、何らかの決然とした意志と用心深さが見てとれた。

 私はおにぎりを弁当包みの小風呂敷に置き、そっと挨拶してみた。


「……こんにちは、今日は暖かいですね」


 タヌキはおにぎりを目で追っていた。私はもう一度声をかけた。


「いいお日和ですね。ご近所の方ですか」

「はい、 ご近所の人間です」

「素敵なお着物ですね」

「はい、素敵なお着物を来た人間です」


 稚拙に、かつ自信たっぷりに答える。タヌキは、自分自身のメタモルフォーゼの才能に疑いを持っていないようだ。吹き出しそうになって、私は慌てて咳でごまかした。


「今日のようなお天気の日は、お弁当を外で食べたくなりますねえ」


 タヌキはひげをちょいちょいといじりながら言った。私も、そうですね、とうなずいた。


「今日のお弁当は魚のおにぎりと、玉子と、かしわと野菜を煮たのと……えーと、野菜ですね」

「あ、はい……当たりです。すごいですね」


 一瞬、タヌキは肩をそびやかした。得意げな様子を慌てて押し隠し、きょろきょろと周りを見回した後、タヌキは声を潜めた。


「あなたは勇気がありますね」

「勇気ですか?」

「はい。ここでお弁当を広げるなんて」


 タヌキが化かそうと寄ってくるなのか、と聞きたくなる気持ちを抑えるのが大変だったが、私は努めて冷静に尋ねてみた。


「ここでお弁当を食べる人は勇気があるのですか」

「ええ、そうですとも! 食べ物の匂いにつられてクマが来るかもしれませんからね」


 ギクッとした。

 ずっと昔からこの地域でクマの目撃情報はない。だけど、棲息数が増えてこれまでクマが見られなかった地域からも目撃情報が寄せられている昨今、軽率だったかもしれない。

 私の目の前で、人に化けているつもりのタヌキはひょっとすると、おこぼれを狙ってクマが来るまで私を足止めしている可能性もある。

 私の思惑には無頓着に、タヌキはずいっと距離を詰めてきた。


「でも、きっとクマは来ませんよ」

「そう……なんですか?」

「そうですとも。この辺にクマは近寄れないのですよ」


 タヌキは重大な秘密を話すような重々しい口ぶりになった。


「ここらへんには、クマよりももっともっと賢くて、強くて、おそろしいものがいるからなんですよ」

「え? クマより強い動物?」

「はい」

「イノシシとかですか?」

「そんなの、ちょっと牙が尖ったばかやろうです」

「イノシシじゃなかったら……野犬ですか?」

「あのならずものは大体人間に捕まって、今はあまりいませんよ」

「じゃあ何だろうな……えーと」


 タヌキは最大の秘密が漏れるのを恐れるように、私の耳元にこう言った。


「タヌキです」

「はぁ?」


 私は素っ頓狂な声を出してしまった。


「どうです、おそろしいでしょう」


 まじまじと相手を眺めてみる。タヌキも、恐怖におびえるはずの私を、期待を込めた眼差しで見つめ返している。営業職のさがなのか、その期待には応えなければ、と私は思った。


「ええ、とてもおそろしいです」

「タヌキに襲われたらひとたまりもありませんよ」

「死んでしまいますね、ああ、こわい!」


 私が怖がってみせると、タヌキは小躍りせんばかりにうれしそうだった。


「悪いことは言いません、食べ物を置いて、急いで逃げたほうがいいですよ」

「そうですね! でも、味が濃いものは体に悪いので、このゆで卵だけにします!」

「タヌキは味がちょっと濃くても気にしません」

「いいえ! タヌキに祟られたらいけないので!」


 私はこわいこわいと呟いて見せながら、大きな笹の葉を摘んでベンチに置き、その上にゆで卵をのせて弁当を包みなおした。

 タヌキはゆで卵を凝視して待ち遠しそうに舌なめずりをしている。お尻のあたりが盛り上がり、絣の生地の下でぴこぴこ揺れる。たぶん尻尾をふっているのだろう。


「じゃあ、私はタヌキが恐ろしいので帰ります! さようなら!」

「さようなら」


 そのとたん、少し離れたところで犬の声がした。散歩中なのか、甲高い、小型犬の声だった。

 タヌキは一瞬すくみ上ると、慌ててゆで卵を咥えて、必死かつ鈍重に四本足で走り去った。


 こうして、私はタヌキの愉快な詐欺に引っかかった。

 帰りの車の中でずっとたんたんたぬきをハミングしながら、私はゆで卵一個では到底釣り合わない、モフモフした幸せを心に抱きしめていた。


    ――了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

きみはとてもおそろしい 江山菰 @ladyfrankincense

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画