【短編】「今年は渡さない」と決めたバレンタイン。マウント取り合う教室の地獄に耐えられず、私の精神が嫉妬で崩壊するまでの記録
月下花音
Ep.01
二月一日。
教室の引き戸を開けた瞬間、空気が腐っていた。
比喩じゃない。物理的に、甘ったるくて埃っぽい、最悪の混合気体が充満していたのだ。
暖房の設定温度が高すぎる。
窓ガラスが結露して、そこを誰かが指でなぞって『〇〇傘』とか書いているのが透けて見える。
そして、その淀んだ熱気の中で、女子グループの話し声が反響している。
「ねー、友チョコどうする? また交換会やる?」
「えー、今年はお菓子作り禁止令出てないっけ?」
「バレなきゃ平気だって。去年も余裕だったし」
キャハハ、という甲高い笑い声。
それが鼓膜にへばりついて、朝から胃酸が逆流しそうだ。
私は自分の席――窓際の後ろから二番目――に座り、カバンを机のフックにかけた。
ガタン、と机が揺れる。
前の席の男子が貧乏ゆすりをしている振動だ。
斜め前の女子は、手鏡を出して前髪をミリ単位で調整している。
そして、隣の席。
そこには、まだ誰もいない。
空っぽの椅子が、冷たい光を反射している。
(……来るな)
心の中で、最低なことを願う。
彼に会いたいのに、会いたくない。
この二律背反の感情が、二月に入った瞬間から急激に加速している。
チャイムが予鈴を告げるのと同時に、後ろのドアが荒っぽく開いた。
「うっわ、あつっ」
彼だ。
部活の朝練帰りなのか、ジャージの上から制服を羽織っている。
少し湿った髪。
制服の袖から漂う、シーブリーズと汗と、柔軟剤が混ざったような複雑な匂い。
その匂いが鼻腔をかすめた瞬間、私の心臓がギュッと縮み上がった。
生理痛の予兆みたいな、鈍くて重い痛み。
「……おはよ」
私は教科書を開きながら、視線も合わせずに言った。
「おー、おはよ」
彼は気だるげに椅子を引き、ドサッと座る。
机がぶつかって、私のシャーペンが転がり落ちた。
「あ、わり」
「いいよ、別に」
拾い上げる彼の手。
爪の生え際が少しささくれている。
バスケットボール特有の、乾燥した指先。
その指が、私の方へシャーペンを差し出してくる。
受け取る瞬間、指先が触れた。
バチッというのが静電気なのか、私の自意識のショート音なのかわからない。
たぶん、ただの乾燥した冬の空気のせいだ。
「なぁ、今日の一限って何だっけ」
彼があくびを噛み殺しながら聞いてくる。
口の端に、朝ご飯のパン屑がついている気がして、見ていられなくて目を逸らす。
「……現文。教科書、また忘れたの?」
「いや、あるけど。……眠ぃわ」
彼は机に突っ伏した。
背中が規則正しく上下している。
その無防備な背中を見ていると、喉の奥に熱い塊が込み上げてくる。
好きだ。
死ぬほど悔しいけど、好きなのだ。
こんな、授業中に寝てばかりで、デリカシーもなくて、パン屑つけてるような奴のことが。
でも、この感情は「劇物」だ。
取り扱いを間違えれば、私のスクールライフは即死する。
今は二月。
クラス替えまで、あと二ヶ月弱。
この微妙な時期に、もし私が彼にチョコなんか渡して、告白なんかして、そして盛大に振られたとしたら?
想像してみる。
翌日からの教室。
ヒソヒソ話。
「あいつ、隣の席なのに告ったらしいよ」「気まずくね?」という嘲笑を含んだ視線。
そして何より、彼自身が私に向ける「困惑」の目。
今まで通りに話しかけてくれなくなるかもしれない。
「教科書見せて」とか「ノート貸して」とか、そういう気安いやり取りが全部、「あいつ俺のこと好きだしな」というフィルター越しに処理されるようになる。
それは、地獄だ。
クラスという閉鎖空間で、隣の席の男子と気まずくなることほど、精神を削り取る拷問はない。
「……はあ」
深いため息をついて、私はシャーペンの芯をカチカチと出した。
黒板に書かれる文字なんて、一つも頭に入ってこない。
周りの女子たちは、楽しそうに「誰にあげるか」を話している。
彼女たちは強い。
「振られてもネタにできる」あるいは「振られるわけがない」という、絶対的な自信か鈍感さを持っている。
スクールカーストの上位層に許された特権だ。
私みたいな「モブ」には、そんな防具はない。
一発被弾したら終わりの、丸腰の歩兵だ。
今年は渡さない。
絶対に渡さない。
今の「なんでもない隣の席の女子」というポジションを死守するんだ。
「仲良いよね」って冷やかされたら、「全然? ただの席が近いだけだし」って真顔で返す。
その安全地帯から一歩も出ないことが、私の生存戦略だ。
そう自分に言い聞かせて、私はノートの隅に意味のないうずまきを描き続けた。
黒鉛で真っ黒になったうずまきが、私の心の中みたいでひどく汚かった。
ふと、スマホのバイブが鳴る。
机の下でこっそり画面を見ると、検索履歴のタブが開いたままだった。
『手作り 簡単 大量 本命に見えない』
思わず画面を伏せた。
気持ち悪い。
「渡さない」って決心した舌の根も乾かぬうちに、これだ。
「本命に見えない本命」なんていう、卑怯な逃げ道を探している自分が、本当に惨めで、浅ましくて、死にたくなる。
窓の外を見る。
冬の空は、目が痛くなるほど青い。
校庭では体育の授業をやっている男子たちの声が聞こえる。
「パス!」「こっち!」
元気だなって思う。
悩みなんてなさそうだなって思う。
私はこの腐った教室の中で、自分自身の自意識と、甘ったるい空気と、そして隣で寝息を立てている彼という存在に、あと何日耐えればいいんだろう。
14日という数字が、処刑台の階段みたいに、一日一日と近づいてくる。
胃が痛い。
これはきっと、昼ごはんに食べた購買のカレーパンの油が悪かったせいだけじゃない。
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