第7話 気になる存在


朝の空気は、

少しだけ

冷たくなっていた。


季節が、

静かに

進んでいる。


治癒工房ルーメン

扉を開けると、

澄んだ風が

頬をなでた。


「……いい朝」


ルーチェは、

そう呟いて

店の準備を始める。


包帯を整え、

器具を磨き、

魔力の流れを

確認する。


いつも通り。

変わらない

日常。


それなのに、

胸の奥が

少しだけ

ざわついていた。


理由は、

わかっている。


あの、

遠くからの

視線。


昨日、

目が合った

あの男性の

姿が、

頭から

離れなかった。


「……考えすぎ」


首を

振る。


恋は、

もう

追わない。


決めたはずだ。


それでも。


カラン、と

鈴が鳴り、

最初の客が

入ってくる。


子どもを

連れた

母親だった。


「転んでしまって」


膝に、

小さな

擦り傷。


「大丈夫ですよ」


優しく

声をかけ、

ヒールを

施す。


淡い光が、

傷を

包み込む。


子どもは、

目を

丸くした。


「……いたく

ない」


「よかったね」


母親が

微笑む。


その光景を

見ていると、

心が

落ち着く。


今の

自分には、

これが

必要だ。


午前中は、

忙しく

過ぎていった。


ふと、

顔を上げた

瞬間。


視線を

感じた。


通りの

向こう。


あの

男性が、

立っている。


昨日と

同じ

場所。


距離も、

ほとんど

同じ。


「……また」


胸が、

小さく

跳ねた。


目が

合う。


彼は、

すぐに

視線を

逸らす。


だが、

逃げない。


その場に

留まったまま、

少しだけ

体の向きを

変える。


「……見てる」


確かに、

こちらを

意識している。


怖くは、

なかった。


むしろ、

なぜか

落ち着く。


それが、

不思議だった。


「ルーチェさん?」


客に

呼ばれ、

我に返る。


「すみません」


治癒に

集中する。


それでも、

意識の端で、

外の

存在を

感じていた。


昼過ぎ。


客足が

落ち着く。


水を

飲みながら、

外を見る。


彼は、

いない。


少しだけ、

胸が

軽くなる。


……同時に、

小さな

物足りなさ。


「……え?」


自分の

感情に、

戸惑う。


どうして。


知らない

相手なのに。


ただ、

見られている

だけなのに。


夕方。


店を

閉める頃。


また、

いた。


今度は、

少しだけ

近い。


通りの

反対側では

なく、

二、三軒

先の

建物の影。


ルーチェは、

わざと

作業を

ゆっくり

進めた。


視線を

感じながら、

包帯を

片付ける。


外に

出る。


看板を

持ち上げる

その瞬間。


「……」


目が

合った。


彼は、

驚いたように

一瞬

固まり、

それから

慌てて

視線を

逸らす。


「……あの」


思わず、

声が

出た。


彼の

肩が、

ぴくりと

揺れる。


立ち止まる。


逃げない。


数歩

離れた

位置で、

振り返った。


「……何か、

ご用ですか」


自分でも

驚くほど、

落ち着いた

声だった。


男性は、

一瞬

口を

開きかけ、

すぐに

閉じる。


言葉を

探している

ようだった。


「……すみません」


低い、

落ち着いた

声。


「迷惑でしたか」


その一言に、

肩の力が

抜ける。


「いえ」


正直に

答える。


「ただ……

気になって」


彼は、

視線を

伏せた。


「あなたが、

真剣に

働いている

のが」


「目に

入って」


短い

言葉。


飾りは

ない。


けれど、

嘘は

感じなかった。


「それで……

つい」


言葉が

途切れる。


沈黙。


気まずさは、

不思議と

なかった。


「……そう、

ですか」


ルーチェは、

少しだけ

笑う。


「見られる

ほどのこと、

してないです」


男性は、

首を

振った。


「……凛として

いました」


その言葉が、

胸に

静かに

落ちた。


凛としている。


そんなふうに

言われたのは、

初めてかも

しれない。


「名前……

聞いても

いいですか」


気づけば、

そう

尋ねていた。


恋の

始まりの

言葉では

ない。


ただ、

知りたかった。


男性は、

一瞬

迷い、

それから

答えた。


「ケリーです」


「……ケリー」


名前を

口にすると、

不思議と

馴染んだ。


「私は、

ルーチェ」


改めて

名乗る。


「……知って

います」


彼は、

小さく

頷いた。


それ以上、

話は

続かなかった。


ケリーは、

軽く

会釈をし、

通りの

向こうへ

歩き出す。


「……また」


小さく

呟く。


彼は、

振り返らなかった。


それでも、

胸の奥に

残るものが

あった。


恋を

捨てた。


そう、

思っていた。


でも、

心が

動くことまで

止められる

わけじゃない。


ただし。


これは、

恋じゃない。


まだ。


ルーチェは、

そう

自分に

言い聞かせながら、

店の

灯りを

落とした。


夜の

セレナールに、

静かな

気配が

広がっていく。


気になる存在は、

いつの間にか、

日常の

一部に

なり始めていた。

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