深夜23:30。人生詰んだ元音大生は居酒屋の厨房で息のしかたを思い出す。

蒼波ミツハ

23:30(You won't be lonely.)



 ――生きててよかったなんて、言える日が来るんだろうか。



 油の匂いが染み付いた狭い居酒屋の隅で、和久かずひさは布巾を動かしながら、一年前まで弾いていたピアノの感触を思い出していた。

 店の時計が二十三時半を回ると、世界は急に密度を落とす。

 奥の四人席に座っている客の笑い声も、どこか遠い。テーブルには空になった皿と、まだ半分残っているハイボール。壁際では、次を頼むか迷っている目がメニューの上を漂っている。


 手元の布巾で、濡れたテーブルの木目をただ平らにしていく。拭くというより、整えるという作業に近い。角が揃っていないものを見ると落ち着かない。皿を重ねるときも同じだ。音が出ないように、重心がずれないように、余計な隙間が入らないように。


「お兄さん、これ下げてもらっていい?」


 声をかけてきたのは、前にも来たことのある顔だった。常連というほどではない。顔と、注文の癖だけが薄く記憶に残っている程度の客だ。


「はい、ありがとうございます」


 笑って返したつもりなのに、喉が乾いていた。水を飲むタイミングがわからないまま、皿を重ねて厨房へ運ぶ。


 厨房では、大将が腕まくりしたままフライヤーの火を落としていた。短く刈った坊主頭に無精髭。肩幅が広く、どっしりした体躯には威圧感がある。四十を過ぎた年齢相応の弛みが腹に乗っているのに、それが弱さに見えない。動きは無駄なく、重いものが静かに置かれていく。


「大将、これ下げます」

「おう」


 返事は短い。声は低く、煙のように鼓膜を揺らす。タバコの匂いはしないのに、喉の奥で燻っているような声だ。


 客席のほうから、別の客が言った。


「そういえばさ、ここの大将、昔格闘技やってたってホント?」


 笑いながらの雑談だ。和久が反応するより先に、大将がまな板をさっと拭いた。表情は変わらない。


「知らねえな」


 短く零した言葉が、火を消したあとの油みたいに淡々と落ちる。


「えー。その反応、絶対そうじゃん。何やってたんすか?」

「鍋振ってただけだ」


 それ以上は続けない。否定でも肯定でもなく、話題を逸らす。客もそれで引く。こういう距離感を、大将はずっと維持している。

 和久は皿を洗いながら、ふと潰した仕入れ箱の側面に貼られたシールを見た。見覚えのある文字の並びが、妙に目に残った。


「……これ、当麻たいまから来てるんですね」


 自分の声が、店の雑談に混ざるのが気まずかった。大将は水を止めずに言った。


「それ、読めるのか」

「まあ……地元近いんで」


 和久はそれ以上、続けられない。これ以上言葉を継げば、何かが近づいてしまう気がした。近づくのは、怖い。


 客席のほうでグラスの当たる乾いた音がした。誰かが「あ、これ、いい曲だよねー」という声を上げた。客のスマートフォンから、短いピアノのフレーズが流れていた。動画の音らしい。

 数秒で途切れたのに、その数秒で、和久の指先がわずかに硬くなった。何もなかったふりをして、作業に戻る。戻るしかない。止まったら、頭の中の音が大きくなる。


 店の明かりは半ば落としてあった。レジ横にある防犯用の小さなランプだけが、脈みたいに点いたり消えたりを繰り返している。

 その点滅を見ると、和久は部屋の隅に置いた電子ピアノを思い出さずにいられない。昨夜も、鍵盤の蓋を開けて、電源だけは入れてみた。小さなランプが点いて、低いノイズがゆっくり床に沈んでいくのを聞いただけで、結局一音も鳴らさずに切った。

 弾けば何かが戻ってしまう気がして、戻ってほしいのに、戻るのが怖い。


 片付けの手は止めない。止めたら身体の外側が静かになって、内側だけが騒ぎ出してしまう。布巾で木目をならしながら、和久は無意識に四つで区切って拭いていることに気づく。昔、メトロノームに合わせていたときと同じテンポだ。

 気づいた瞬間、指先がわずかに強張る。短く整えた爪が布に引っかかる。

 店舗BGM用のタブレット画面を拭こうとして、布の上で滑った指が、意図せずボタンを押した。


 指が離れたときには、もう楽曲が切り替わっていた。

 静かなギターのアルペジオに続いて、叩きつけるようなドラムと歪んだギターの力強いイントロが流れ込んでくる。


 ――フラワーカンパニーズの『深夜高速』。

 この曲は何度か耳にしたことがある。咄嗟に、これはまずいと思った。


 まず、身体が先に反応した。胸の奥がきゅっと縮む。熱いのか冷たいのかわからないものが喉へ上がってくる。さっきまで普通に動いていた指が、急に言うことをきかない。皿を置く音が少しだけ大きくなり、客の一人が顔を上げた。


「……すみません」


 声が変なところで裏返った。大将が一瞬こちらを見た。眉も表情も動かない。ただ、視線だけが、布巾を握っている和久の手を捉えた。


「そのままでいい。置いとけ」


 低い声。短い指示。大将は手元の作業を止めないまま、シンクの横にコップを一つ置いた。氷を多めに入れて、水を注ぐ。氷が当たる乾いた音が、和久の呼吸よりはっきり聞こえる。


「裏、行ってこい」


 命令でも慰めでもない。指示を出す、現場の声だ。和久は頷いたつもりで、頷けていなかった。足が遅れる。笑っている客の声が背中に刺さる。

 見られている気がする。見られてはいないのに、見られている気がする。


 コップを持って勝手口に通じる暖簾のれんをくぐり、その奥の薄い扉を閉めた瞬間、呼吸が崩れた。息を吸おうとすると胸が痛い。吐こうとすると声が漏れる。今、いちばん出したくない声だ。


「……っ」


 自分の喉から、知らない音が落ちた。壁にもたれたまま、その場にしゃがみ込む。コップの縁に口をつける。水の冷たさに、やっと現実が戻ってくる。戻った瞬間に、現実の重さも返ってくる。


 水の冷たさで、喉の奥が少しだけ通る。それでも胸の重さは残ったままだ。

 一年前の和久は、まだピアノ専攻の音大生で、文字通り人生を賭けて鍵盤に向かっていた。鍵を借りてこもる練習室。指の皮が薄くなる感覚。学内コンクールの貼り紙。鍵盤の上では何でも出来るはずなのに、『出来ている』の向こう側にだけは行けなかった。どうやったら行けるのか、誰も教えてくれない種類の壁だった。


 いくつかのきっかけが重なって、辞めた。音楽も。大学も。家も。全部。


 誰も知り合いのいない街に来て、慣れない仕事を回して、今を暮らしている。その日その日をやり過ごして、ただ息をつないでいるだけ、みたいに。


 扉の向こうでは、客の笑い声が続いている。曲も続いている。あの、印象的なリフレイン。真正面からの励ましというよりは、真っ暗な道の途中で置き去りにしてきた自分の足もとをそっと照らす、心許ないヘッドライトの光。


 扉が少し開いて、大将が顔を覗かせた。手を洗ったばかりなのか、指先が濡れている。背中で扉を閉める音が、店と裏をきっぱり分けた。大将が、タオルを一枚渡してきた。客用の布巾じゃない。大将が自分用に使っている、少し厚いやつだ。


「息」


 煙たく低い声が降ってくる。


「吸って、吐け」


 和久は頷こうとして、また涙が出た。悔しいとか悲しいとか、そういう言葉で片づかない。今まで押し込めていたものが、曲に合わせて引っ張り出されている。


「俺……」


 声が出た瞬間、もうダメだと思った。


「音大……ピアノで。演奏家、目指してて……でも、無理で」


 言いながら、自分が子どもみたいだと思う。二十歳もとうの昔に過ぎているのに。働いているのに。客の前では普通にしているのに。ここでは普通が崩れてしまう。


「大学も辞めて……家も出て。こっち来て……」


 大将は頷かない。否定もしない。ただ、自分の話を聞いている。


「何も……なくなって。何もないんすよ。友だちも、いないし。誰にも、俺のこと知られてない」


 大将が視線を落とした。油の染みついた黒い床。和久の白いスニーカー。揺れるコップの水面。観察するみたいに見てから、ひと呼吸置いて言った。


「どうにもならん日が来たら、ここで働け」


 言葉には重さがない。言い方は軽いのに、決して軽くはない。抱きとめるみたいな同情や憐みはなく、ただ「席はある」と札を置くような声だ。大将の声は煤けて、湿り気のある深夜の空気に似ている。


 和久の目から、また涙が落ちた。タオルを掴む。嗚咽が出そうで歯を噛む。噛んでも出る。


「……そんなの、ずるいっすよ」


 自分でも何を言っているのかわからない。ずるい、という言葉しか出ない。


「ずるくねえ」


 大将は即答した。


「店には働くやつが要る。お前は手が丁寧だ。皿の重ね方でわかる」


 その褒め方が、また沁みる。小学生のころにピアノを習っていた先生は、練習でも指の置き方を見ていた。丁寧だね、と言われるのが嬉しくて。だけどそれだけじゃ届くはずもなくて。


 和久は言葉を探した。探して、いちばん恥ずかしい言葉が出た。


「俺もいつか……生きててよかったって言える日が来るのかなあ……」


 最悪だ。泣きながら笑うみたいに声が震えた。自分で言っておきながらひどく情けないし、恥ずかしいしで、胸が痛い。


 大将は間を置いた。慰めの言葉を探している顔じゃない。厨房の火加減を見ているときと同じ顔で考えている。


「来るかどうかは知らねえ」


 まず、突き放す。優しく突き放す。


「だがよ」


 大将が前掛けの紐を指で締め直した。そのまま、癖みたいに結び目を整える。真っ直ぐにする。乱れているものを元に戻す。


「来る日まで、飯は食え。風呂入れ。寝ろ。金が足りねえならシフトの相談しろ」


 大将の言葉は教訓ではなく手順だった。和久の胸の奥で、何かが少しだけ現実の形に戻っていく。

 扉の向こうで、客の声が少し大きくなった。グラスの当たる音がする。


「大将ー、もう一杯!」


 大将が客のテーブルに向かって返事をする。


「あいよ!」


 それから和久を見る。


「戻れるか」

「……はい」


 返事はした。まだ呼吸は乱れている。でも戻るしかない。戻れる場所があるなら、自分は戻れる。


 大将は扉を少しだけ開け、店の空気を確かめた。音は裏にも漏れていた。曲はまだ続いている。大将の手がタブレットに伸び、ボリュームを一段だけ下げた。切らない。消さない。ただ、下げるだけ。


「すいませんでした。仕事、戻ります。……まだ、皿が残ってるんで」


 手の中のタオルを一度、ぐっと握りしめる。

 指先の震えをそこで止める。それから、和久は息を吸って、吐いた。

 戻る、と決める。震える膝を自分で叩いて、立ち上がった。和久が扉の前で立ち止まると、大将が低い声で付け足した。


「泣いたことは俺しか知らねえ。客には見せるな。仕事は守れ。お前自身も守れ」


 父親でも先生でもない。ただの居酒屋の大将の言い方だったのが、救いだった。

 店内に戻ると、客の一人が「あれ、曲変わった?」と言っている。気づいていないのか、気づいていても気づかないふりをしてくれる程度の距離。

 和久は皿を下げながら、目尻を指で拭いた。まだ頬が熱い。胸の奥は痛いまま、それでも手は動く。布巾を、四つで区切って動かす。気づいたらまた拍を刻んでいるのに、今は止めなくてもいい気がした。


 大将はカウンターの向こうで、いつも通りに氷を割っている。坊主頭の髭の下で、口元がほんの少しだけ動いた。笑ったのか、そうじゃないのかはわからない。

 曲は続いている。

 深夜の片隅で、大将しか知らないところで、和久だけがちゃんと泣いた。


 そして、泣いても仕事は終わる。終わるから、また次の日が来る。

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深夜23:30。人生詰んだ元音大生は居酒屋の厨房で息のしかたを思い出す。 蒼波ミツハ @mitsuha_novels

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