発端 -2-
「無事のお帰り嬉しゅうございます、ご主人様。本日は何をご所望になりますか?」
メイド喫茶にはいろいろなメイド言葉があるが、さくらは自身の言葉で相手に合わせて変える。臨機黄変に幼さには似合わない言葉を使うことで、ギャップ萌えを狙っている。この店では指名料を貰える。他の女の子たちと差別化を図れば、それなりに指名料が入る。さくらにとっては重要な資金源だった。
「あ、あみちゃん」
栄光は少し太めの身体をゆすり、右手で額の汗を拭いた。緊張しているのが分かる。
「あみとお呼びくださいませ。ご主人様、これをどうぞ」
さくらは99パーセント除菌と書いてある箱からウェットティッシュを一枚、指でつまんで栄光に差し出した。彼は握手券の回数券を購入している。汗ばんだ手で触られるのは嫌だっただけだが、栄光はそれを彼女の優しさゆえだと勘違いしているようだった。
勘違いでもすれ違いでも、恋の駆け引きはこういうところから始まる。そこに金銭が絡むとややこしいことになるのだが、水商売とはそんなものだろうとさくらには薄々分かっていた。
「あ、あみス、スペシャルを」
栄光は差し出されたウェットティッシュを嬉しそうに受け取り、汗と手を拭いた。それからそれを、ズボンのポケットに押し込む。
持ってかえるのだろうと、さくらは思った。ちょっと気持ち悪い気がしたが、どうせウェットティッシュは店の常備品だし、さくらはその中身に少し触れただけだ。除菌もされていると割り切ることにした。
「はあーい。御礼申し上げます。しばしのお時間をいただきます」と、さくらは少し鼻にかかった甘い声を出す。
店の厨房に向って大きな声で、「妖精さん。栄光様が、あみスペシャルをご所望でございます」とわざと店内に聞こえるように言った。
この店では、女の子の名前の付いたスペシャルメニューを頼むとオーダーの時のみ、自分の名前を呼んで貰える仕組みとなっている。架空の名前を使うお客も多いが、栄光は本名で呼ばれたがっていた。
さくらが、「栄光様」と口にした瞬間、彼の鼻の穴がふんと大きくなり椅子の上にふんぞり返る。まるで本当にさくらがメイドで、彼がこの店の王様にでもなったかのように見えて
女の子の名前のついたスペシャルメニューは高めに設定してある。あみスペシャルは、ただのハンバーグの横にオムライスのついた物だが、税込みで二千五百円。普通の喫茶店では高くても精々千円から千二百円なので、どう考えても暴利だ。だが、栄光はいつもこのあみスペシャルを選ぶ。よほど名前を読んでほしいのだろう。
さくらは戻ってくると、「お飲み物はいかがいたしますか? ご主人様」と聞いた。
彼は下を向いたまま、「お、お水」でと小さな声を出す。
この店の飲み物も高い。コーヒー 一杯が千円もする。飲み物をオーダーすれば、指名した女の子と一緒にいる時間を延長できるが、栄光はいつも飲み物を頼まない。彼がケチなのかお金がないのかは、さくらには分からなかった。
――まあ、指名料も払ってくれるし、あみスペシャルのマージンは大きい。
そのままお給料に直結する。多少やっかいな客でも仕方がないと、さくらはニッコリと笑ってみせた。
「では、お注ぎいたしますね」と、ピッチャーからグラスに水を注ぐと「萌え萌え。美味しくなる魔法」と両手の人差し指と親指でハートを作って左右に振る。
栄光は、彼女を上目使いで見ている。その視線が不気味だった。
さくらは自分の中のあみをなんとか引っ張り出し、今お客さんの相手をしているのは、あみという名の別の女の子だと自分自身に言い聞かせる。そしてやっとのことで笑顔を作ると、店の奥へと消えた。
この店はあくまで喫茶店であり、必要以上に客と会話する必要はない。仕事は挨拶をしてオーダー取り、運ぶ、握手券があれば、最後に握手をする。それだけだ。
さくらは厨房から、あみスペシャルを持ってくると、「ご主人様。お待ちいただきありがとうございます」と、それを栄光の前に置いた。
「ケチャップはおかけになりますか?」
「は、はい。いっぱいかけて」と栄光はいやらしい目であみを見る。
「では、一緒に美味しくなる魔法をかけましょう」
「ああ、あい、あいこめで」
「はーい。萌え萌えキュン。萌え萌えキュン。美味しくな~れ~」と、二人は一緒にいいながら、さくらはオムライスにハート型を描いた。
「もっと、かけて」という要求に白けた気持ちで、さくらはケチャップをかける。
ハート型はくずれて、ベットリとした赤いモノが黄色い玉子の上に広がった。
さくらの仕事はここまでだ。後は退出時にお見送りをするだけとなる。もし、もっと話がしたければ、何か違うものをオーダーするか、グッズを買わなければならない。だが、ここからが栄光の面倒なところだった。彼はいつもなんとかして、さくらと話す時間を伸ばそうとする。
「あ、あ、あみちゃん。これ、受け取って」と小さな包みを渡す。
またかと思いながら、「わー。何でしょう?」と、さくらははしゃいだ声をあげた。
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