第8話ワタさん
ワタさんは、一言で言えば「現場の王」でした。仕事の正確さと速さは群を抜いており、その人望ゆえに誰もが彼を頼りにしていました。彼は早くからわたしに心を開いてくれ、休憩時間にはよく、目尻を下げて家族の話をしてくれました。
「この間、兄貴の娘が遊びに来て、お小遣いをあげたんですよ。『マコちゃん、お仕事頑張ってね』なんて言われて……もう、めちゃくちゃ可愛いんですよ」
そんな家庭的な顔を見せる一方で、彼はわたしの正体を見抜くような鋭さも持ち合わせていました。
「自分、根岸さんのことどこかで見たことあります。五、六年前、テレビに出てませんでした?」
その問いに、わたしは曖昧に微笑むしかありませんでした。わたしの「過去の大暴れ」の残滓が、こんな場所にも漂っているのかもしれなかった。
2022年8月21日の夕方、わたしのスマートフォンにワタさんからLINE電話が入りました。受話器の向こうから漏れ聞こえてきたのは、工場の平穏を揺るがすスキャンダルの報告でした。
十九歳の知的障害を持つ加山くんが、わたしの恋人であるサエちゃんに本気で惚れ込み、手に負えないほどの大騒動を起こしたというのです。結果、彼は「プラネット」という別の作業所へ事実上の更迭となりました。
「もう当分、加山はここには戻ってこれないでしょうね」
ワタさんは続けました。
「サエちゃんは、たぶん山本くんのことが好きなんですよ。誕生日も同じで、一歳下ですしね」
胸の奥がチリりと焼けつくような感覚がありました。サエちゃんは、わたしの彼女だったはずだ。けれど、ワタさんの語る「現実」は、さらに混迷を極めていきました。
ワタさんによれば、その山本くんの本命は別にあり、アヤノさん(二十九歳)やタケウチさん(三十二歳)と浮名を流しているというのです。
「山本のTikTokの待ち受け、アヤノさんの変顔なんですよ。所長のかおりさんまで含めて、あいつ手当たり次第らしくて。でもアヤノさんには切られたみたいですよ。代わりに今は、三人の子持ちのタケウチさんと遊びまくっています。彼女も人懐っこいし、若いうちに結婚したから遊びたいんでしょうね。……いいですか根岸さん、これ、あなただから言うんですからね。絶対秘密ですよ」
ワタさんの声は、どこか楽しげですらありました。
「サエちゃんは、わたしと付き合っていたんだ」
その言葉が喉元までせり上がってきましたが、わたしは間一髪でそれを飲み込みました。
工場のラインで食材を袋に詰める静かな作業の裏側で、これほどまでにドロドロとした情愛と裏切りが渦巻いている。二十九歳の独身女性、十九歳の少年、三児の母……。皆、障害という看板を背負いながら、その実、剥き出しの「業」に突き動かされて生きている。
わたしがオイシックスを去ることになる2022年10月、ワタさんとわたしは、もはや隠し事のない「親友」となっていました。
けれど、この濃密すぎる人間関係のしがらみが、わたしの精神を少しずつ摩耗させていたことも事実です。わたしは、この愛憎渦巻く松戸の工場を後にし、次なる舞台、江戸川区へと導かれていくことになります。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます