魔女と旅人の話
七月神取
友人との約束を果たす話
なあお前、お前は海を見たくはないかい?
これは友人との約束を果たす物語。
~狼を家に招いた話~
むかしむかし、山に囲まれた小さな村に
ひとつの家族がありました。
真面目で誠実なお父さん。
優しく慈愛にあふれたお母さん。
ふたりに愛され、ふたりを愛して育った愛らしい一人娘。
三人は豊かではないけれど、とても幸福に生きていました。
毎日夕食の時に神様に今日の幸福への感謝と
明日もこの幸福が続くよう祈りを捧げていました。
幸せでした。
とてもとても、本当に幸せな毎日でした。
一人娘の女の子は、何もないけど幸せな毎日が永遠に続くものだと思っていました。
ある日女の子は、森で倒れている男を見つけました。
女の子が男に声をかけると
男は言いました。
「とてもお腹が空いていて動けないのだ」
お父さんとお母さんは女の子に
「困っている人がいたら助けてあげるのです」
とよく言い聞かせていたので、
素直な女の子は男を助けて家へと招きました。
事情を聞いた両親は快く男を迎え入れました。
採りたての野菜でスープを作り、少し贅沢な牛の肉を焼いて振る舞いました。
男は涙を流しながら、何度も何度も礼を言い、家族と神様に感謝の言葉を述べて料理を平らげました。
「これも何かの縁でしょう。今夜は我が家で身を休めていかれるとよい」
お父さんは笑顔でそう男に言いました。
男は涙でぐしゃぐしゃになりながら、嬉しそうに頷きました。
見ず知らずの男のために料理を作ったお母さんも、男を受け入れたお父さんも、
女の子は本当に立派で、誇らしく感じていました。
けれど女の子は忘れていました。
森の奥に住んでいた、今はもういないお婆さんの言葉を。
「繋がり眉毛の男を信用してはならないよ。悪魔が人に化ける時、繋がり眉毛の男の姿をとるものなんだ」
女の子が助けた男は、繋がり眉毛の男でした。
悪魔は夜更けに目を覚ましました。
女の子は何故だか胸騒ぎがして、心を落ち着けるために水を飲もうと居間へ向かいました。
そこには男が立っていました。
ニタニタと、イヤラシイ笑いを浮かべながら。
女の子は問いかけます。
「あなたはどうしてそんなに嬉しそうなの?」
「美味しいご飯を見つけたからだよ」
「あなたはどうしてそんなに腕が大きくなっているの?」
「たくさんのご飯を掴めるようにだよ」
「あなたは、あなたのお口はどうしてそんなに大きいの?」
「それはね、
お前ら全員食ってやるためだよ」
女の子が金切り声をあげて逃げ出す後ろで、
男は黒い悪魔の姿へと変わっていきました。
女の子の悲鳴を聞きつけた両親が駆けつけると、悪魔は鋭い鉤爪と犬歯で
お父さんを食いちぎってしまいました。
お父さんは声にならない声でお母さんに向かって叫びました。
ーーーを、まもれ
お母さんは女の子を抱きしめて、涙でぐしゃぐしゃになりながら走り出しました。
お母さんの肩ごしに、女の子はお父さんがバリバリむしゃむしゃぐちゃぐちゃと、お父さんが食べられている姿を見ていました。
お母さんは頑張って、細い足で走りましたが、悪魔の速さに勝てるはずもありません。
お父さんを平らげた悪魔はひとっ飛びでお母さんに追いつくと、お母さんに襲いかかりました。
お母さんは細い腕で力いっぱい、女の子を突き飛ばしました。
「振り返らないで! 走りなさい!」
お母さんがそんな風に叫ぶのを、女の子は初めて聞きました。
女の子は言われるがまま、夜の森へと走り出しました。
女の子の背中にお母さんの悲鳴と、お父さんを食べていた時と同じバリバリむしゃむしゃぐちゃぐちゃという音がまとわりついてきました。
女の子は走って、走って、お婆さんの家があった方を目指しました。
昔お婆さんが言っていたのです。
「これより深く森に入ってはいけないよ。この奥には、世界で一番恐ろしい悪魔がいるんだ。婆はね、その悪魔が出ていかないように見張っているんだよ」
お婆さんの家の奥には、深い洞窟がありました。
村の誰も近付いてはいけない、と厳しく定められていた洞窟が。
どうしてそこに向かっていたのか、女の子にもわかりませんでした。
けれども何故か、女の子はそこに向かわなければならないと思い、走っていました。
茨の棘に肌を傷つけられようとも、蹴躓いて泥の中に倒れても、女の子は立ち上がって、走り続けました。
暗い空が明るくなっていました。
朝が来たのではありません。
炎が、空を赤く染めていたのです。
村は燃えていました。
悪魔に燃やされていたのです。
女の子が走って、走って、やっとの思いで辿り着いた洞窟に転がり込んで、後ろを振り返ると、炎が立ち上る村が見えました。
女の子がほのかに想いを寄せていた優しい男の子も、女の子がその秘密を打ち明けた明るい友達も、日曜の礼拝でこっそりお菓子をくれた神父様も、女の子がいけないことをした時赦しをくれたシスターも、みんなみんな、燃えてしまっていたのです。
女の子はわんわんと泣き出しました。
死んでしまったみんなを哀しむよりも、
自分だけが生きていることに安心してしまった、自分の醜さに。
そしてそれの原因が、他ならぬ自分自身であるということに。
泣きながら這いずって洞窟の奥へ奥へ、炎の明かりも届かない暗がりへと進んでいきました。
自分の罪から逃げているようだと思いました。
そう思って余計に、泣きました。
泥と血と涙で可憐な顔を汚しながら、女の子はついに洞窟の一番奥へ辿り着きました。
その洞窟には呪われた悪魔が閉じ込められていました。
悪魔は女の子に語りかけます。
「殺したい
殺したいのに体がない
殺したいのに何も出来ない
苦しい
苦しい
君の体をくれないか
君の体で僕は世界を殺したい
殺したいんだ
その代わりに、君が殺したいヤツを殺してやろう
君に殺す力をあげよう
だから僕に体をくれないか
苦しいんだ」
女の子はドロドロと渦巻く悪魔の闇を、きっと睨みつけました。
「体なんかいらない。魂ごと全部お前にあげる。だから私に、アイツを殺させて、
殺す力をちょうだい」
女の子の言葉に、悪魔はとても嬉しそうに笑いました。
「ありがとう
僕は君みたいな子をずっと待ってたんだ
君に出会えて本当に良かった
僕は君を喰らおう
だから君も
僕を喰らうといい」
そう言って悪魔は女の子の魂と、名前をぺろりと呑み込んでしまいました。
女の子になった悪魔は、悪魔としての心も存在もなくしてしまいました。
悪魔は自分をすんなり受け容れてくれた女の子をとても気に入ったので、女の子の心と体だけは残してあげました。
悪魔の代わりに女の子が悪魔になってしまったのでした。
「これで君は殺す力を手に入れた
でも君は永遠にひとりだ
ひとりきりだ
僕はもう溶けてなくなる
僕はただの力になる
君は死なず、消えず、世界から切り離されてたったひとりの存在になってしまった
でも後悔はないんだね」
「ない。わたしは、アイツを殺せればそれでいい。アイツと同じになっても、もっと酷い、醜いものになっても」
悪魔は女の子の答えに満足そうに微笑むと、そのまま女の子の心と体に溶けていきました。
女の子は一晩中、悪魔に体が作り替えられていく苦しみに
泣いて
のたうち回って
自分の喉をかきむしって
爪が剥がれるまで地面をかきむしって
自分の心をかきむしって
そうして朝が来る頃には、
女の子はもう女の子ではなくなっていたのです。
ただのか弱い女の子だった人間は、女の子の皮を被った悪魔になっていました。
悪魔が村に戻る頃には、村を焼いた悪魔はすっかり姿を消していました。
焼け焦げた家屋の中に散らばる、昔大好きだった人たちの形を残す何かがあるばかりで、
女の子が探し求める相手は誰もいませんでした。
「殺してやる」
女の子はそう呟いて、白々しい朝日を睨みつけていました。
こうして女の子の、ながいながい旅が始まったのです。
~魔女が生まれた話~
それから女の子は悪魔を探してたくさん歩きました。
たくさん旅をしました。
最初の百年は執念でした。
最初はボロボロの女の子を憐れんで優しくしてくれた人たちも、女の子が歳をとらない体だと気付くと魔女だと罵って追い出しました。
女の子は特に傷つくこともなく、追い出されたらまた旅を続けました。
次の千年は恩讐でした。
消えぬ復讐の焔に心を焼きながら、朽ちては再生する体の歩みを決して止めず、仇を殺したいとの一心で女の子は旅を続けました。
千年が過ぎて、もっと永い時間が過ぎて、時代が変わっても女の子は旅を続けました。
気の狂いそうになる孤独の時間を、心を復讐で支配することで、女の子は復讐鬼として生き続けました。
けれどもある日唐突に、女の子はある可能性に思い至ってしまったのです。
それは女の子にとって最悪の思い付きでした。
ーー復讐すべき相手が、もうこの世界のどこにもいないのではないかとーー
弱りに弱りきって、人間の小娘に過ぎない女の子に助けを求めてきた惰弱な悪魔が、こんなにも永く生き永らえることができるものかと。
女の子が探し続けている間に、女の子の預かり知らぬ場所でひっそりと朽ちているのではないかとーー
女の子は、発狂しました。
魔女だ悪魔の類だと謗られ、人の集落から放逐され、地を這いずり泥水を啜って、病に飢えに何度も斃れ、この世の地獄を全て渡り歩いてまで求めた相手が、既にいないとしたら。
なんのために自分は生きた。
みんな死んでしまったのに、ひとり生き残ったのに、永劫にも均しい時間をなんのために彷徨した。
女の子は崩折れて、深い森の中で声にならぬ慟哭をあげました。
とうの昔に失ったはずの理性が急速に引き戻されて、女の子の心を壊していきます。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
女の子は空に向かって叫びました。
「悪魔よ! 聞こえているか! 悪魔よ! 私のこの思考を……理性を、記憶を奪い去れ! さもなくばお前との契約を果たせなくなるぞ!」
女の子の声に呼応するように、心の外か、中か、はたまた世界の果てから懐かしい声が聞こえてきました。
構わないけれど、今一時記憶を奪ったところで君は理性を取り戻す度
また同じ思考に辿り着くよ
「ならば何度でも記憶と理性を、そこに至る思考を奪え! 私が思い出す度に、何度でも!」
近くて遠い何処かからため息が聞こえてきた気がしましたが、すぐに女の子の心から何かが吸い上げられていくのがわかりました。
体の芯から何かが吸い上げられていく衝撃に、女の子の体はがくがくと震え、白目を剥いて開きっぱなしの口からだらだら涎をこぼしてしまいます。
ほんの一瞬で作業は終わって、解放された女の子はぱたりと倒れて湿った苔の上でしばらく気絶してしまいました。
何時間か後、目を覚ました女の子の瞳は再びどす黒い焔を宿し、仇を求めて冷え切った体を震わせながらまた歩き出すのでした。
何度でも、そう言われた通りに悪魔はひっそりと女の子が発狂する度、女の子の記憶と理性と思考を奪い続けました。
そうやってまた女の子の永い旅は続いたのです。
やがて訪れた魔女狩りの時代、彼女は何度も焼かれました。何度も水に沈められました。何度も水車に磔られて拷問を受けました。
けれど女の子は死にませんでした。
女の子は死んでしまいそうな苦しみの中、村の人たちのことを思っていました。
みんなはこんな苦しみの中で死んだのか
私がみんなをこんな風に死なせてしまったのか
あの男はーーー悪魔は、こんな風にお父さんとお母さんを喰い殺したのか
何度目かの火刑に処されて灰になって、それでも意識を保って体が元に戻ろうとしている時でした。
「お前、生きているな」
女の人の声がしました。
不思議な声でした。直接心に語りかけてくるような、音になっていないのに言葉が伝わってくる、不思議な声でした。
「そう、お前あの悪魔を喰ったのね。お前のような子供がそうまでするなんて、何かやり遂げたい目的があるのでしょ。言ってみなさい。手伝ってあげないこともないわよ」
ーー殺したい相手がいる
そいつを殺すまで死ねない
消えられない
絶対に
わたしはそいつを殺す。
灰となった悪魔は声に応えて呪詛を吐き出します。
声はふふっと楽しげに笑うと、灰を一瞬で掻き集めて女の子の姿に戻してしまいました。
「復讐なんて詰まらないオチね。でもその執念は気に入った。お前を好い処へ連れて行ってやろう」
声の主は魔女でした。
人々が恐れ、迫害した女たちは本物の魔女ではありませんでした。
本物の魔女たちは、ひっそりと地下にその身を隠して嵐が過ぎ去るのを待っていました。
本物の魔術師たちが結成したという組織の庇護を受けて。
数多の人間たちから魔女の謗りを受けてきた悪魔は、名実ともに魔女になりました。
悪魔だった魔女は色んな魔術を学びました。
特に人ではないモノを殺す魔術を熱心に勉強しました。
契約した悪魔の残滓が女の子に魔術的な力を与えていたので、女の子はメキメキと魔術師としての頭角を現し、見る間に強力な魔術師となりました。
魔女は魔術師たちの中でも一目置かれる存在になりました。
魔女を連れてきたのが、組織でさえ畏れる上位の存在だったのも、余計に彼女の名を広めました。
組織は幼い彼女に任務を与えました。
たくさんのマモノや、人に害をなす存在や、組織に仇なす人間たちを殺す任務を。
魔女は全て完璧にこなしました。
魔女は幼い姿ながらも、組織で最も戦果をあげる存在となりました。
何百年もの間黙々と成果を上げ続ける内に、いつかは組織の幹部となるのでは。
誰もがそう噂しました。
けれど突然、魔女は組織を去りました。
両親からきちんと礼儀を教えられていた女の子は、組織にさようならしますと告げて出ていきました。
誰も止められる者はいませんでした。
ひとりを除いて。
「行くのね」
女の子を組織へと導いた存在だけは、女の子を止められる筈でした。
けれどもその存在は女の子を見送りに来ただけでした。
引き止めるための言葉など、一度もかけずに。
「アサシン教団に行くのだってね。あちらの方が情報網として優秀だから、妥当な判断ではある」
「とめないのね」
「何故? お前はお前の人生を生きればいい。私にそれを遮る権利はない。私はそんな風に束縛するためにお前を連れてきたわけではないのだから。まあけれど、少し残念ではあるか。お前ならいつか、私を超えられると思っていたのにーー魔女として」
「……あなたはいつもそうやって高いところから人を見下している。私はそんな風にはなりたくはない」
女の子の失礼な言葉に怒りもせず、至高の魔女ーーーーは微笑みながら女の子を送り出しました。
「フラれてしまったけれど、私はお前が本当に好きなのよ」
「私も、あなたが嫌いではなかった」
二人が交わした言葉はそれが最後になりました。
女の子は魔術師の世界からより深い闇の世界へと歩み出していきました。
~魔女が殺し屋になった話~
アサシン教団と呼ばれる影の組織は、その名の通り歴史の影で殺戮を行う集団でした。
元は十字軍遠征の際、イスラム教圏で十字軍に抵抗したとのだと伝説化された組織の名を冠しただけの模倣組織でしたが、有能な暗殺者の育成、スカウトによる武力強化、また間者を各地に配し情報戦を制したことで得たアドバンテージを最大限に活かした戦略により、瞬く間に組織を拡大し今や本拠地を構える中東を中心に、世界各地に拠点を置く一大組織となっていました。
また人、悪魔、宗教、相手を問わず、報酬を支払った相手の依頼した相手を確実に殺すという、正に女の子にとってうってつけの組織でした。
殺して殺して殺して、殺すだけ。
女の子は色んな武器を扱う機会を手に入れました。
武器に魔術を宿して扱う女の子は、教団でも重宝されました。
それまで教団に足りていなかった魔術を持ち込んだので、教団の大人たちはみんな女の子に魔術の教えを請いました。
代わりに女の子は武器の扱いと戦略を教えてもらいました。
女の子は色んなものを吸収して、とても強い殺し屋となりました。
アサシンといっても単独行動による暗殺だけではなく、集団での連携を取ることが重要なのです。
殺し屋となった女の子はとても頭が良かったので、指揮系統を任されるようになりました。
完璧な作戦を立てて完璧にそれをこなす女の子を、誰もが賞賛しました。
けれどもやっぱり、女の子はひとつところに長く留まる存在ではありませんでした。
ある晩、女の子が殺しを行う場面を旅人に見られてしまいました。
偶然通りかかっただけの、何も知らない若い、少年の幼さを面影に残した旅人でした。
女の子は旅人を殺そうとしましたが、旅人は殺さないでくれと言います。
そんなのはいつもの事なのですが、余裕を持って任務を終えた女の子は、最期の言葉くらいは聞いてやろうと武器を下ろしました。
すると旅人はこう言ったのです。
「君みたいな女の子が人を殺している場面に出くわすなんて、やっぱり旅は面白い。こんな所で旅を終わらせるのはもったない。僕はもっと、君より面白く、醜い存在を見てから死にたい」
変なヤツだと女の子は思いました。
けれど女の子はもう少し旅人と会話をしてみたくなりました。
何故旅をしているのか。
居場所がどこにもないからさ。ないならないで仕方がないから、色んな場所を回ることにしたんだ。
その旅は虚しくないのか。
とんでもない! 楽しくて仕方ない。自分がそれまでどれだけちっぽけな世界で生きていたかがわかるんだ。旅をすればする程、世界は広がってゆくんだ。
広がるばかりの世界で、果てにぶつかったらどうする。
世界に果てなんてないのさ。果てがあるとすればそれは、自分の心が成長を止めてしまったところだ。
女の子は血に汚れた自分の手を見て、自分が殺した相手を見て、無垢な旅人を見て、それから、
笑いました。
「私もお前の旅に付き合わせてくれないか」
そうやってまた簡単に、女の子はアサシン教団を抜けました。
ここにもまた女の子を止められる存在はいませんでした。
アサシン教団は組織を抜ける際、二度と武器を扱えないよう熱した斧で両手を切り落とすのですが、女の子の腕はほっておいても勝手に生えてくるので全然意味はありませんでした。
ジュウジュウと焦げた手首をぶら下げて旅人の元を訪れると、旅人はびっくり仰天。
女の子の手がにょきにょきと生えてくる様を見てまた更にびっくり仰天。
面白がって観察する旅人に自分の体のことをつぶさに話してやると、旅人はうーんと難しい顔をしました。
女の子がどうしたのかと聞くと
「それじゃあ最初は君は僕の妹ってことにしよう。次は娘。それで最後は、孫ってことにでもしようか。二人旅だと自己紹介にも困るもんだなあ。何せひとりで歩き回っていたものだから、今の今まで思い至らなかったよ!」
そう言ってあははと、旅人は朗らかに笑いました。
~世界を旅する話~
旅人と一緒に女の子は色んな所を旅しました。
広大な砂漠。
彩り鮮やかなジャングル。
人と物の行き交う貿易都市。
塩の湖。
色々な土地に赴いていた女の子も、知らない場所ばかりでした。
旅人は気まぐれに行き先を変え、何度も死にそうな目に遭いました。
その度に何度も何度も、女の子が助けてやるのでした。
自分がいなければ何回死んでると思ってるんだと女の子が言えば、旅人はいつも笑いながらこう返すのです。
「最初に僕を殺そうとしたのは君だ。僕の命を生かしているのは君さ。だから僕は君に何度も救われる権利があるし、君は僕を救う義務がある」
わけがわからない、というのが女の子の正直な気持ちでした。
旅人の理屈は女の子には全然理解できないものでしたが、不思議と離れる気にはなりませんでした。
色々な土地で、女の子は旅人にとって色々な役柄を演じました。
最初は妹で通していましたが、旅人は歳をとります。
どうしたってそれではまかり通らなくなった頃、女の子は旅人の娘になりました。
長い間、女の子は旅人の娘でいました。
旅人が
「僕の自慢の娘です! 可愛いでしょう! 僕みたいなちゃらんぽらんと違ってしっかり者で、僕がドジやらかす度に叱られてばっかりで……」
なんて調子のいいことを吹聴する度、旅人のすねを蹴りあげてやると、どっと笑いが起こるのです。
「ほらね、いっつもこんな調子で……アイテテテ」
と旅人が大袈裟に痛がって見せれば、人の良い街の人々はもっともっと、大きく笑うのです。
それを見ていると女の子も自然と、微笑みが零れるのでした。
「お前がそうやって笑うようになるなんてなあ」
塩の湖でのことでした。
塩の湖は溶けることがなく、鏡のように空を映し出すのです。
天と地の境目がなくなったかのような光景は、世界から切り離された二人にとって感動よりも落ち着けると感じられる場所でした。
夕暮れ時からずっとこうして二人、座り込んでぽつりぽつりと会話を交わしては、時折落ちる沈黙を楽しんでいました。
「なあお前、仇は見つかったのか」
「見つかったら、此処でこうしてはいないわよ」
「それもそうかあ、あははは」
女の子は旅人に自分の過去を語ったことはありませんでした。
旅人もまた自身の過去を語ったことはありませんでした。
それでも長く時間をともにする内、なんとなく互いの事情を察するようになっていました。
女の子が様々な組織を渡り歩いてきたのも、こうして世界を旅しているのも、
すべてはあの悪魔を探すためだと。
憎しみに囚われた心はどれだけ暖かな空間に浸ろうとも、美しい景色を見ようとも、変わるものではありませんでした。
あの夜に芽生えた、大切なものを奪った存在への恩讐と、ひとり生き残ってしまった罪悪感と、それを忘れない為に世界から隔絶された存在へ身を堕とすことを選んだ記憶は、感情は、彼女が彼女として存在する為に必要なものになっていたのです。
旅人もまた、己の心に抱えた空虚を埋められないままでいました。
周りの人間たちが楽しげに笑う中で、旅人だけは心からの笑みを見せたことがないのを女の子は知っていました。
自分が旅人の見えない所で、とても旅人には言えないような所業を続けていることに、旅人が気付いていることも、女の子は知っていました。
魔術師の中にいても暗殺者の中にいても、旅人と旅をしている間も、女の子はずっと仇を探して殺戮を続けていたのです。
それでも二人は旅を続けました。
「なあお前、お前は海を見たことはあるか?」
「ないな。私は山に囲まれた寒村で生まれて、そこからずっと夜の底でしか生きてこなかったから」
「そうかい。僕はなぁ、海の街で生まれたんだ。とても美しいぞ、海ってのは。僕の生まれた街は、それはそれは賑わっていた貿易の港でなぁ、海の男ってのは皆の憧れだったものさ。潮風が運んでくるんだ」
「何を」
「ロマンをさ」
「……つまんない」
ははっ、と旅人は笑います。
その笑い声も出会った時から随分と低くなったものだなあ、と、声の変わらぬ女の子は思います。
「なあお前、お前は海を見たくはないか?」
「ここはある意味海じゃないのか?」
「全っ然違うね。こんなものは海じゃない。本物の海は、もっとすごいんだ、すごいんだよ」
色んな場所を旅してきた二人でしたが、海だけは訪れたことはありませんでした。
旅人が、海を避けていたからです。
海が近づく度に旅人は進路を変え、過酷な山道などのおかしな方角を目指すのです。
「僕はな、もう一度海が見たい」
「……なら行けばいい」
「いいや、僕は、僕の故郷の海が一番でありたいんだ。あれ以上に綺麗な海なんて見たくもない。でも、そうだなあ。僕が死んだら、海の見える場所に墓を立ててくれやしないか。いや、墓なんて立派なもんじゃあなくっていい。君の魔法で灰にして、海にまいておくれ。そうして僕は、故郷の海以外を知らずに海を知ることが出来る」
「……やけにセンチメンタルじゃないの」
「ここが海に似てるのが悪いのさ」
「さっき全っ然違うって言ったばかりじゃない」
「違うさ、違うとも。海はもっと広くて、果てがないんだ。そのくせ僕らを受け入れてくれやしない」
満点の夜空とそれを映す鏡の中で、世界から放り出された二人は、確かに自分たちの居場所を感じていました。
だのに旅人は故郷をそんな風に言うのです。
「私は海を知らない。だからきっと、お前のその気持ちも永遠にわからないだろうさ」
「だろうな。だから言ったんだよ、お前にだけな」
旅人は女の子を見つめて、再び問いかけます。
「なあお前、お前は海を見たくはないか?」
「……いつか、ね」
二人が互いの過去を口に出したのはそれが最初で、最後でした。
世界の果てのような景色の中で、二人は互いの出発地点に想いを馳せていたのかもしれません。
女の子が旅人の娘になって、ついに旅人の孫になって幾らかの年が過ぎた頃、旅人は山に囲まれた小さな村でうとうとと眠りの端にいました。
二度と醒めない、眠りの端に。
旅人は女の子に語りかけます。
「僕も随分と歳をとったもんだが、お前は変わらず可愛らしいまんまだなぁ」
「私はそういう存在だからね」
「うん、可愛い可愛い。醜いお前が、本当に、可愛く笑うようになった。そんな演技もできるようになったもんだ」
「お前に比べればまだまだ演者としては未熟者だよ」
「そりゃあそうさ。僕は一度も、お前の前では笑ったことなどないからなぁ」
あははと、嗄れた声で老いた旅人は笑いました。
「心の底から笑ったことも泣いたこともない。けどなぁ、お前にはそんな風にはなって欲しくはなかったなあ」
「お前と一緒に居てそんな風にならずにいられるものかよ」
「そりゃあ当然さなあ」
旅人はもう一度笑おうとして、ゲホゲホと咳き込みました。
もう演技でも笑うことさえ出来ない旅人の姿に、女の子は何かを感じていたのでしょうか。
何も感じていないような顔をして、女の子は近づく嗅ぎなれた死の臭いが旅人をゆっくりと、穏やかに包み込んでいくのを感じていました。
「なあお前、いつかお前に海を見たいかと聞いたな」
「そんなこともあったかな」
「僕はな、後悔なんてないと思ってたさ。何にも見つけられずに、何にも得られずに、ただ色んな場所を彷徨して死んでゆくだけの人生に、後悔なんてないもんだとね。でもな、今一つだけ残念に思うことがあるんだよ」
老いた旅人は、もうほとんど見えない目で女の子を、死を見つめました。
「お前に故郷の海を見せてやりたかったなぁ。お前は僕が出会ってきた中でも一番醜いと感じる存在だったけれど、お前に、僕の最も美しいと感じる、景色を、見せたかった」
乾いた唇の端を吊り上げて、旅人は目を閉じました。
もう二度と開かない、動かない、嗄れた声で周りを笑わせることもない旅人のすべてを見届けて、女の子は、魔女だった、殺し屋だった女の子は、
旅人の体を灰にしました。
~友人との約束を果たす話~
「遠い東の果ての国では、烏の濡れ羽色という表現があるそうだ。また、漆黒という、実際には存在しないが、全てを飲み込むほど究極に美しいとされる黒色を表する言葉も存在するのだとか」
「何が言いたいんだ」
「僕がいなくなった後にお前が昼の世界でまともに生きていくのは難しいだろう。きっとお前はまた闇の世界へ戻る。だったらいっそ、そこまで黒というものを讃える場所へ行った方が生きやすいのじゃないかとね。そんなアドバイスみたいなものだよ」
「……心には留めておく」
「………海を見たくはないか、なんてロマンティックな台詞の後につける文句がそれだからアイツは全く」
小箱を抱えて、美しい娘は海を望む崖に立っていました。
ひとりで。
潮風に煽られて靡く艶やかな髪に、塩がまとわりつく不快感に娘は顔を顰めました。
「全く、海なんてロクなもんじゃないじゃない」
鬱陶しそうに横髪を払って、娘は小箱の蓋をあけました。
「ほら、さっさと行きなさいよ」
娘が小箱を逆さにすると、さらさらと灰が零れ落ちて、風に舞って、やがて海へと帰っていくのでした。
灰は灰に、彼方へと。
いつか誰かの願ったままに。
照りつける陽射しに目を眇めて、娘は遥かな海原を見渡しました。
「確かに、私たちの居場所なんてないわね。こんな、世界の果てのように優しい処に」
きらきらと陽光を反射して輝く水面に、誇らしげに帆を張る船に、陽気な人々に、雄大な母なる海に、
娘はどうしようもなく疎外感を覚えたのでした。
「……こんなものを渡っていけだなんて、ほんっと、最後までロクなもんじゃないわ」
娘の最後の友人との約束は、娘が一方的に約束だと思っているだけかも知れません。
ですが娘は、その約束を果たしたいと思ったのです。
「海の向こうに行って、そこにも世界の果てなんてないんだと、私が見てきてあげる」
小箱が完全に空になったのを確認すると、娘は小箱をそっと消して、港へと歩き出しました。
気さくな船乗りが娘に声をかけてきます。
「おーい! もうすぐ出航だぞー! 乗遅れたら積荷に紛れて不法侵入しかねぇぞー!」
「えぇー、そんなの嫌です。待ってくださいませ~」
娘はたおやかに駆け出した。
旅人が示した異国へは、長い海の旅路になるそうだ。
~友人との約束を思い出す話~
時代が過ぎて世界中を回っても、仇の情報は一向に掴めなかった。
よくよく考えれば空腹で倒れる程度の雑魚だ。どこぞで野垂れ死んでいるかもしれない。何せ自分は長く生きすぎた。あの悪魔の方が遥かに自分より惰弱な存在なのは明らかだ。自分が必死こいて探してる間に自滅でもしてたら、笑える。心の底から。
そんな風に思想を巡らせていると、何処かで誰かが微笑んでいる、気がした。
少女はその気配に気付かぬ振りをして、夜のマルセイユを歩いて行く。
海を一望出来る丘に立って、潮風に流されるまま揺れる髪を遊ばせている。
夜の海を眺めながら、懐かしい記憶を思い起こす。あの小箱に詰めて捨てた筈が、気が付けば心の小箱にしっかりと戻ってきていた、酷く身勝手で、心地好い記憶を。
ここには天と地の境目がはっきりとある。
夜の海は荒れ、月の光を歪ませるだけだった。
汚染された空では星の光も見えない。
旅人は言った。
世界に果てなんてないのさ。果てがあるとすればそれは、自分の心が成長を止めてしまったところだ。
あの旅人は最初から世界の果てで彷徨っていて、結局そこから抜け出せなかったのだ。
旅人は旅人でも、心はずっと故郷に囚われたまま、何処へも行けなかったんだ。
そう気付いたのはいつだったか。旅人と過ごした間か、それとも別れてから数年経ってからか、時間の感覚もそれに伴う思考の変化も曖昧になってしまった今ではもうわからない。
ただひとつ確かなのは、旅人は少女の心が止まっていないことに気付いていた。
復讐に囚われた心の時計の針は、いつしか動き出していた。
少女はまだ世界の果てを知らない。
旅人の、いや普通の人間の何倍もの時間を生きてきたのに、復讐と殺戮のことしか考えられなかった少女は、今はただの旅人として世界を旅している。
悪魔になった。魔女になった。殺戮者となった。
でも悪魔が唯一残していった、人間としての外観は、ハリボテでも人間の心を持っている。
気の遠くなるような時間を理性蒸発状態で過ごして、過ごして、やっと今、一人の少女として精神的に成長出来るスタートラインに立ったのだ。
だから少女は旅を続ける。
本当の意味で旅人となるために。
ポケットで携帯が震えた。
画面を確認すれば、遠い東の国から友人のメッセージが届いていた。
少女が彼の地に降り立って初めて会話を交わした、人間であり、今は少女に住処を提供している存在だ。
その国でも少女は人ならざるものを見つけては殺戮を繰り返していた。
ある夜のこと。いつものように異形を屠った現場を、たまたま通りかかったその人間に見られてしまった。
非現実的な光景を前に立ち尽くす人間相手に少女がどうするか思案していると、ぽつりとその人間が言葉をこぼした。
「君みたいな美しい存在を見たのは、初めてだ」
少女は暫時沈思した後、人間へ言葉を返した。
「お前、面白いものが見たくないか?」
少女はその人間の元へ身を置くこととなった。
少女は未だに世界を回って旅を続けているが、必ずひとつの国を巡り終わればその人間の元へと帰るようになった。
少女は人間に土産話を持ち帰って羽を休めを終えると、また旅に出る。
決してひとところに腰を落ち着ける訳ではないけれど、帰る場所のある旅をするようになったのだ。
波の爆ぜる音を聴きながら、少女は思う。
海は相変わらず雄大過ぎて、月の光は冷たいけれど、全て含めて世界は美しいと感じられるようになった。
この感情を、お前とも共有したかったよ。
世界は美しい、美し過ぎて泣いてしまう。涙なんてものは何千年も前に枯れ尽くしたと思っていたのに、美しいと感じる心が泣いてしまうのだ。
お前が拒絶されても愛した海は、どこまでも美しいよ。
いつか復讐を果たせたとしても、きっと旅は終わらない。この心が羽ばたく限り。
なあお前、お前は海を見たくはないか?
かつてこの海に葬った心の亡骸が、水底から囁く。
心のないお前に、少女が零した心が届けばいい。
そう願いながら、少女は心を海へ帰し続けた。
お前からもらった心を、今ここで返すよ。
なあ、お前。
魔女と旅人の話 七月神取 @Chidyo
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