沈黙の白雪 ― 静寂の果て、君の声 ―

@material_burst

第1章 閉ざされた静寂

第1話 脈打つ廃墟

 世界から音が消えて、どれほどの月日が流れただろうか。カリス・シラユキは、ひび割れたコンクリートの床に腹ばいになり、自身の心臓の鼓動さえも恨めしく思っていた。


 ――ドクン……ドクン


 耳の奥で鳴るその音は、今の彼女にとっては、巨大な太鼓を打ち鳴らしているのと同義だった。


「……っ」


 カリスは、口に含んだ革の端をぎりりと噛み締める。呼吸は極限まで細く、長く。肺が酸素を求めて悲鳴を上げるが、決して喉を鳴らすことは許されない。ここはかつて地下鉄の駅だった場所だ。今は冷たい湿気と、死の気配が充満する、沈黙の墓場である。


 三メートル先。改札機の残骸を、影がなめるように這っていた。


 それは『ハウル』の斥候せっこうだった。半透明の、クラゲの足を長くしたような触手が十数本、音もなく空間を漂っている。目も耳もないはずのそれは、空間の「振動」そのものを食糧とする。


 触手の一本が、カリスが隠れている柱の角をかすめた。カリスの視界が、一瞬だけ白く明滅する。背中のあざ――かつての実験の痕跡が、外敵の接近を感知して、焼けるような熱を帯びた。


(来るな……こっちに来るな……)


 彼女は右手に握った、自作のボウガンの引き金に指をかける。矢の先端には、ハウルの外殻を削り出した、音波を吸収する特殊な黒いチップが埋め込まれている。物理的な破壊は望めなくても、核を貫けば一時的に「無」に帰すことができるはずだ。


 だが、今は戦うべき時ではない。彼女の背負ったリュックには、集落の子供たちが一週間生き延びるための、古びた抗生物質の瓶が入っている。これを持ち帰るのが、今日の彼女の「足掻き」のすべてだった。


 その時。駅の奥、真っ暗な線路の先から、乾いた音が響いた。


 ――カラン


 何かが、転がった。おそらく、腐食した天井の鉄骨が、自重に耐えかねて剥落したのだろう。あるいは、飢えた鼠の仕業か。この世界では、そんな些細な偶然が、死の宣告となる。


 ハウルが、弾かれたように反応した。優雅に漂っていた触手が、一瞬で鋼鉄のように硬質化し、音の源へと殺到する。空気が裂けるような無機質な震動波が放たれ、カリスの鼓膜を針のように刺した。


「ア……!」


 カリスは声にならない悲鳴を飲み込み、即座に立ち上がった。ハウルが音に惹きつけられている、今しかない。彼女は足の裏に厚いフェルトを巻いたブーツを鳴らさぬよう、だが豹のような俊敏さで、崩れたエスカレーターを駆け上がった。


 あと少し。地上へ出るハッチまで、あと十メートル。しかし、背後で「音」の性質が変わった。


 ――ズズ、ズズズッ


 先ほどまでの斥候とは比較にならない、巨大な質量が、地下の壁を削りながら迫ってくる音がした。ハウルが「仲間」を呼んだのだ。カリスは、もう隠れることをやめた。彼女はリュックから、小さな円筒状のデバイス――『ノイズ・デコイ(疑似音響囮)』を取り出すと、迷わず線路の反対側へと放り投げた。


 (三、二、一……)


 デバイスが、凄まじい高周波の「悲鳴」を放つ。地下駅全体が震えるほどの爆音。


 ――シュアアアアアアア!


 闇の中から、無数の触手と、巨大な歪んだ口を持つハウルたちが、デコイ目掛けて殺到するのがわかった。  その隙にカリスはハッチに手をかけ、全力で這い出した。


 地上は、灰色の雪が舞う、モノクロームの地獄だった。カリスは荒い息を吐きながら、冷たい空気を肺に流し込む。背中の痣が、まだ熱い。


「まだだ……まだ、私は生きてる」


 彼女はシラユキという名にふさわしい、真っ白な髪を乱しながら、崩壊したビル群の隙間へと駆け出した。一歩、また一歩。泥にまみれ、死に損ないながらも、彼女の足掻きはまだ止まらない。


 ハッチを閉め、ボルトを固く締める。それだけで、背中の痣の拍動がわずかに収まった。カリスは雪の上にへたり込み、冷たい空気を肺の奥まで吸い込んだ。


 地下駅を抜け出したカリスを待っていたのは、すべてを等しく灰色に塗り潰した地上だった。空からはすすを含んだ「灰の雪」が音もなく降り積もり、かつてのビル群は、巨大な虫に喰い荒らされた骨のように無惨な姿を晒している。


 カリスは、防護服の襟を立て、口元を覆うマスクのフィルターを調整した。


 シュ……シュ……


 自分の呼吸音さえ、この世界では不吉なリズムを刻むドラムのようだ。


「……まだ、追ってきてる」


 独り言は唇の中でだけ形にする。声に出せば、それは死への招待状になる。背中の「痣」が、じりじりと焼けるような熱を放っていた。それは地下にいたハウルたちが、カリスが放ったデコイの音に飽き、再び彼女という「生命の震動」を探し始めた合図だった。


 カリスは足元の瓦礫を避け、慎重に歩みを進める。彼女の脳裏には、幼い頃の記憶が、氷の破片のように突き刺さっていた。真っ白な部屋。冷たい手術台。銀色の針。


『実験体番号・白雪。生体共鳴率、正常。神経接続を開始します』


 無機質な声とともに背中に走った、あの一生消えない激痛。


(私は、人間として生を授かったんじゃない。ハウルを殺すため、音を制御するための『部品』として作り替えられたんだ)


 自嘲気味な思考が頭をもたげる。だが、その「部品」としての機能が、今こうして彼女を生き永らえさせている皮肉。ふいに、前方のビル風が「異質な音」を運んできた。


 ――チリン


 澄んだ、だがこの絶望的な静寂にはあまりに場違いな、金属の響き。カリスの全身の毛穴が逆立った。彼女は即座に、崩落したコンビニエンスストアのカウンター裏へ滑り込んだ。音響ゴーグルのダイヤルを回し、視覚情報を「熱・振動モード」へ切り替える。


 ビルの屋上に、歪な影が三つ。ボロボロの法衣を纏い、顔を不気味な仮面で隠した一団――『鳴音教団めいおんきょうだん』だ。彼らは手にした錫杖しゃくじょうを振り、わざと音を立てていた。


「おお、大いなる静寂の主よ。我が声を、我が命を、捧げん……」


 一人が、掠れた声で詠唱を始める。カリスは奥歯を噛み締めた。彼らは、ハウルを「人類の罪を浄化する神」と信じている狂信者たちだ。彼らが音を立てれば、周囲数キロのハウルが呼び寄せられる。


(……やめろ。ここには、生きようとしてる奴らがいるんだ!)


 カリスは、背負ったリュックをきつく抱え直した。中には、集落の子供たちの命を繋ぐ薬がある。  男が再び鐘を鳴らそうと腕を上げた。その瞬間、カリスの意識が「痣」へと集中する。背中の皮膚が、内側から爆発しそうなほど熱くなる。彼女はそれを呪うのではなく、引き金にする。


 カリスはボウガンを構え、スコープを覗き込んだ。風向き、湿度、そしてハウルの接近による空気の震え――すべてを「部品」としての脳が計算する。


 ――プシュッ


 サイレンサーがガスを逃がす微かな音。放たれた黒い矢は、灰色の空を切り裂き、教団員の持つ鐘の「紐」を正確に射抜いた。鐘は雪の上に音もなく没し、男たちの詠唱が止まる。


「……何奴だ! 神聖なる儀式を邪魔する者は!」


 教団員たちが狂ったように辺りを見渡す。カリスは答えなかった。ただ、影のように瓦礫の間を縫い、彼らの背後へと回り込む。戦いは、可能な限り迅速に。音を立てずに。


 彼女は隠し持っていた高振動ナイフを抜いた。スイッチを入れると、目に見えない微細な震動が刃を覆う。一番近くにいた教団員の首筋に、死神の指先のような速さで刃を這わせる。


「……っが」


 男は悲鳴を上げることすら許されず、崩れ落ちた。返り血がカリスの頬に飛ぶ。暖かいはずの血が、氷のように冷たく感じられた。残りの二人が武器を取ろうとするより早く、カリスは雪を蹴った。彼女の動きはもはや人間のものではない。痣から供給される過剰な神経信号が、彼女の反射速度を限界まで引き上げていた。


 二人、三人。数分後、そこには静寂だけが戻っていた。カリスは、荒い呼吸を整えながら、血に濡れたナイフを雪で拭う。


「……ハ、ハ……」


 胸の奥から、乾いた笑いが漏れそうになる。命を助ける薬を運びながら、自分はこうして命を刈り取っている。この手に残る感触は、いつまで経っても慣れることはない。


 だが、感傷に浸る時間はなかった。背中の痣が、今度は警報のような激しい拍動を始めた。地響きがする。はるか遠く、地平線の彼方から、巨大な「何か」がこちらに向かって移動している。先ほどの鐘の音か、あるいはカリスが放った殺気の震動を、奴らが嗅ぎつけたのだ。


「……逃げなきゃ」


 カリスは立ち上がり、集落『アジール』への隠し通路へと走り出した。足掻あがいて、足掻いて、その先に何があるのか。世界に音を取り戻すため? それとも、ただ死にたくないだけ? 自分でも答えは出ない。ただ、白い髪を雪に染めながら、彼女は灰色の荒野を疾走し続ける。

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