第二章③ 宇宙と続きの自己とは、主観と客観に分かれる以前のものである

第三節 宇宙と続きの自己とは、主観と客観に分かれる以前のものである


 正法眼蔵しょうぼうげんぞう三界唯心さんがいゆいしん」には、


 「三界さんがいはすなはちしんといふにあらず」

 【現代語訳】

 一般的に仏教では、この世のすべては、心より現れたものと言うが、そうではな

 い


とあって、三界と心と二つあるのではなく、たった一つのものです。三界というと心も含まれますし、心というと三界も含まれます。三界(すべてのもの、宇宙)と心(天地一杯の自己)は同じものです。


 禅問答で有名な、趙州じょうしゅう和尚(唐の禅僧)にある僧が問いました。


如何いかなるかこれ祖師そし西来意せいらいい達磨だるま大師だいし印度いんどから中国に来られた意図はなんでしょうか。)」

「庭前の柏樹子はくじゅし(庭さきの柏の木だ。)」

「和尚さん、目の前の対象物で示さないで下さい。」

「私は目の前の対象物で示してなんかいないよ。」(趙州録)


 三界(庭前の柏樹子)と、心(趙州和尚)と二つあるのではなく一つのものだと趙州和尚は言っているのです。

 この事を内山老師は、

「出会うところ我が生命」

と修行者の態度として表現されています。


 また、法華経ほけきょう譬喩品ひゆには、


 「今此三界こんしさんがい(今この三界は) ⦅三界=迷いの世界、この世⦆皆  

 是我有かいぜがう(皆是れ吾が有なり) ⦅有=存在⦆其中衆生ごちゅうしゅじょう(其の中の衆生は) ⦅衆生=生きとし生けるもの、人間⦆悉是吾子しつぜごしことごとくこ是れ吾が子なり)」

とあり、「我」と「三界」、「吾」と「衆生」は一体で、二つあるのではないのです。

 ちなみに趙州じょうしゅう和尚が「犬に仏性ぶっしょうがあるのですか?」と問われて、ある時は「」と答え、ある時は「」と答えましたが、これも「色即是空しきそくぜくう」と同じで「有即無うそくむ有無うむを超えた答えです。


 「信心銘しんじんめい」(三祖僧璨さんそそうさん禅師の著、禅が中国に伝わって三代目の祖師)には、


 「すなわちち是れすなわち是れ

 【現代語訳】

 主観と客観との二つに分かれる以前の天地一杯の世界⦅坐禅の世界⦆では、有即

 無、無即有で、有と無は一つである。


とあります。

 坐禅は体で実践する「宇宙との対話」です。しかし、もし坐禅中、本当に「宇宙さん」と話し始めたら、それはここで言う「宇宙との対話」とは違います。

 坐禅は聖書、詩編八四・九にある

 「わたしは沈黙しよう、そしてわたしの神が、わたしの主が、わたしの内で語ることに耳を傾けよう。」

という言葉の実践です。しかし、実際に耳で神の声を聞くのではありません。身心全体で神の声を聞くのです。話すものと、聞くものが対立しているのではなく、一つのものなのです。


 これと同じ事を正法眼蔵しょうぼうげんぞう現成公案げんじょうこうあん」では


 「身心をしてしきを見取し、身心をしてしょうを聴

 取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず。」

 【現代語訳】

 身心全体⦅宇宙と続きの自己⦆でもってしき色⦅形あるもの⦆を見、身心全体でも 

 ってしょう⦅音声⦆を聴くのだが、⦅そこでは見るものと見られるもの、聴く

 ものと聴かれるものが対立しているのではなくて、一体になっているので⦆身心に

 親しく一体となって受け取っているのであるから、それは鏡に影⦅姿、形⦆をうつ

 すような対立した関係にあるのではない。)


と言っています。


 正法眼蔵しょうぼうげんぞう「無情説法」には、


 「無情説法かならずしも声塵なるべからず。」

 【現代語訳】

 天地一杯の真実の説法は、必ずしも聴覚の対象としての音声ではない。


とあり、沢木老師は、

「仏様と波長を合わせる。」

と言われています。共鳴すると言うことです。しかし、実際にビビッと来たり、何かが鳴り出すのではありません。


 また、正法眼蔵しょうぼうげんぞう渓声山色けいせいさんしき」には、


 「恁麼時いんもじ而今にこんは、吾も不知なり、たれも不識《ふ 

 しき》なり。なんじ不期ふごなり、仏眼ぶつげんも覰不見《しょ

 ふけん》なり、人慮にんりょあに測度そくたくせんや。」

 【現代語訳】

 ⦅坐禅している処に宇宙と続きの自己が現れている⦆その時の今は、自分も知るこ

 とはできないし、たれとしか言いようのない宇宙と続きの自己も認識する

 ことはできない。あなたも⦅何かを知ったり、認識したりすることを⦆期待でき 

 ないし、仏様の眼でも見ることはできないのである。ましてや、人間の思慮で推し

 測ることができようか、できるものではない。


とあり、正法眼蔵しょうぼうげんぞう坐禅箴ざぜんしん」には、


 「知は覚知にあらず、覚知は小量なり」

 【現代語訳】

 坐禅中の知は、感覚によって知る覚知ではない。そのような自分の感覚で知る覚知

 は小さい量見の知である。⦅宇宙と続きの自己の知ではない。⦆


とあって、自分で知ったり、感じたり気づいたりできるのは天地一杯ではありません。

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