第一章② 坐禅の深さには限度がない
第二節 坐禅の深さには限度がない
ここまでは、坐禅には、素人も玄人もないというお話をしてきましたが、ここからは坐禅の深さについて話していきたいと思います。
さて、お釈迦様も私たちも同じ人間です。坐禅は初めてする人も、長年やっている人も、坐禅をしているという点では同じです。坐禅は自分が本来の自己に深まっていくことなので、人と比べなくてもいいのです。
比べなくてもいいのですが、
「皆さん、はまりが浅い、はまりが浅い。」
とよく言われたように、坐禅も真剣にやらねばなりません。
「深さには限度がない。」
ので、どこまでも深まって行かないといけないと思っています。
深まって行くほど、表面の浮き世の波(喜怒哀楽)に左右されなくなって行くのです。しかし、自分を振り返ってみると、私は深まり方が足らないのか、喜怒哀楽に振り回されている毎日です。けれども、仏道修行を始める前よりは、今の方が少しだけ冷静に自分や世間というものを見れるようになったかなと思っています。
また、「
「
みったじ》・・・」
【現代語訳】
観自在菩薩⦅観世音菩薩の別名、観自在は仏の智慧を、観世音は仏の慈悲を表わ
している。⦆が深く般若波羅蜜多を行ずる時・・・
とありますが、観は
般若波羅蜜多は仏様の智慧のこと、道元禅師の
つまり、観音様(仏道修行者の代表)が深い
沢木老師は、
「無限に深いが、
い。従って
「道元禅参究」筑摩書房
と言われています。
AKB48が歌う「365日の紙飛行機」(作詞 秋元康)に、
「その距離を競うより
どう飛んだか
どこを飛んだのか
それが一番大切なんだ・・・」
とあるように、距離や深さや能力を競うのだけが人生ではありません。
登山を例にとると、一日で麓から槍ヶ岳の頂上まで往復するのと、一日目は頂上直下の山小屋で泊まって、二日目の朝、頂上に登って麓まで下りてくるのと、どちらも登山に変わりはありません。
体力、技術には雲泥の差がありますが、私が思うには一日で往復するのは、少し余裕がないように思います。山の風景や眺望を楽しみ、高山植物の花を愛で、雷鳥などとの思いがけない出会いに心躍らせたりしながら、自分の能力に応じて登山をする方がよいと思います。人によって体力や技術は違いますが、それは、そんなに気にしなくてもいいのです。
しかし、油断して十分な準備もせず、よそ見などしていると、怪我したり、命を落とすことにもなりかねません。
仏道修行も同じで、人それぞれ能力や個性に違いがあっても、それは気にせず、真剣に、修行生活を送りたいものです。
ただし、みんなが
道元禅師の
「
「
【現代語訳】
日常の行動は多勢の修行僧と同じ行動をする。⦅それがそのまま真実のありよう様
である。⦆そして、一生、修行道場を離れてはいけない。大勢の中で、一人だけ目
立っても、仏道においては、何の良いこともない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます