第3話 身代わりの決定
クラリスの手元で、カップが小さく鳴った。義母の扇子が床に落ちる。
私は二人の後ろで立ち尽くしている。
耳の奥で、以前から聞かされてきた噂が一斉にざわめく。
『アルヴェイン侯爵と言えば、死神侯爵とウワサされている方だわ』
戦場で情け容赦なく敵を屠り、王国を勝利に導いた。全身傷だらけの凄まじい姿で帰還し、英雄として賞賛を浴びた方。
けれども、平和が戻ると、英雄扱いは名ばかりで、人々はしきりとウワサした。
どれも、ひどい話ばかり。
「嫁いだ女は終わりだ」
「怒りに触れれば殺される」
「命からがら逃げ出した」
「館に入れば、二度と姿を見られなくなる」
よく聞いてみれば、どれも証拠のない話。なのに人々は確信をもって語っている。
怖い。
そんな侯爵と婚姻?
私は、知らず、手を握りしめてしまう。
使者は続けた。
「よろしいかな?」
呆けたような義母に、使者は少しばかり呆れたように、確認をした。
「侯爵様の願いにより、王家が仲介した婚姻です」
「それは、いったい?」
義母は、失礼な問い返しをしてしまったが、使者は不問にしたらしい。代わりに、もう一度、かんで含めるように説明してきた。
「伯爵家のご息女を、侯爵様が正妻として迎えたいとのこと」
「娘と?」
またしても失礼な問い返しに、使者は一瞬眉をひそめた。しかし小さく肯くと、「そうです」と答え、再び説明を続けた。
「侯爵様の戦功を踏まえ、願いを叶えることとなりました。つまり、ご息女との婚姻は王命となります」
義母の顔が、わずかに緩む。
クラリスも、反射のように背筋を伸ばす。彼女たちは一瞬だけ、こう思ったのだろう。
王家からの婚姻。侯爵家への嫁入り。名誉。栄光。
死神侯爵の恐ろしさを、ほんの少しだけ押しやれる程度の甘い響き。
けれど、その直後に、クラリスは青ざめた。
「私、ですか?」
声が震えている。
義母はクラリスを見て、次に私を見ると、口元だけに、私にだけわかる残忍な笑みを浮かべた。
「わかりました。しかし、夫に確認いたしませんと」
「その必要はありません。ヴァルツ伯爵は、既に承認なさっていらっしゃいます」
「え? 主人が?」
「王宮は、ヴァルツ伯爵の承諾を得て、本日は通達に参ったということです」
使者は、輿入れの日を早期に決めるように言い残して、帰っていった。
その間、クラリスは蒼白になって、ただ震えるのみ。ひと言も喋れなかった。
「お母様!」
クラリスが金切り声を上げた。
「イヤよ! ぜったいに、いや!」
義母は、口元にまた微笑を浮かべる。
「大丈夫よ」
「だって、死神侯爵よ! 確かに侯爵様に嫁ぐのは素敵だけど、殺されちゃうなんてイヤに決まってるわ!」
「だから、大丈夫よ、クラリス」
「大丈夫じゃないわ。しかも、顔中傷だらけで、悪魔のようなお顔だとか。見ただけで心臓が止まった人がいるほどなのよ!」
ウワサ好きのクラリスだけに、私以上に「怖い噂」を聞かされているのだろう。
彼女は必死だった。
さっきまでの見せかけのおすましは消え、恐怖だけがむき出しになる。
義母の笑顔が、ぴしりと固まる。
「クラリス、落ち着きなさい」
「嫌! 私じゃない! 私じゃないって言って!」
「あなたじゃないわ。クラリス」
「え?」
口をあんぐりと開けたはしたない顔の娘に、義母は笑顔を見せる。
「だって、使者様はおっしゃったじゃない。伯爵家のご息女だって。いるでしょ? その条件を満たす人が、もう一人」
義母の視線が、冷ややかに私へと向けられた。
「そうか! よかったわね! メイドのあなたが侯爵夫人になれるわよ!」
私は、足の先から冷えていく感覚を覚えた。
怖い。けれどそれ以上に、どこかで納得していた。
そうか。
私は最初から、こういうときのために、この屋敷に残されていたのだろう。
義母とクラリス、二人の視線が、私に粘り着いてきた。
その場から逃げられなかった。逃げるという発想が、最初から私の中にはない。
というよりも、初めから、この話は「私」だったのだ。
何がどうなって、この話になったのかはわからない。けれども、お父様が認めた話だとしたら、私が行くしかない、ということ。
一つだけ、小さくため息をついてしまった。
義母がその様子を見て、少しだけ表情を引きつらせたのを、私は見逃さなかった。
彼女は今、何かに気づいたのかもしれない。
けれど義母は、すぐにその違和感を飲み込んだ。
考えたくないことは、考えない。それが彼女の賢さであり、愚かさだった。
「先ほどの使者様のお話では、急ぐ方が良いみたいよ。さっそく、準備をなさいな」
私は、うなずいた。
声を出せば、何かが崩れてしまう気がしたから。
死神侯爵の花嫁。
誰もが怖がる婚姻。
私の人生は、そこで終わるのかもしれない。
けれど、不思議と涙は出なかった。
涙を流す権利も、もう使い果たしてしまったのだろう。
そして私は初めて思う。
もし、あの噂が本当なら。
私は、ここを出れば、もう二度と戻らない。
戻らないのなら。
この屋敷の「灰色」から、私は解放されるのだろうか。
答えはまだない。
ただ、扉の向こうで義母が低い声で囁くのが聞こえた。
「あちらの家に行っても、余計なことを言うんじゃないわよ。お父さまに恥をかかせることになるのだからね」
私は台所へ戻り、濡れた手を拭いた。
そして、壊れかけた自分の心に、もう一度鍵をかける。
死神侯爵の元へ行くまで、私は泣かない。
泣いてしまえば、怖さに飲まれてしまうから。
迎えが来るまでに、私の持ち物は何も残らないかもしれない。
それでも、私は行く。
誰も嫁ぎたがらない場所へ。
誰も帰ってこないと噂される男の元へ。
私は、伯爵家の娘エレーナ・ヴァルツ。
王宮が知る「娘」は、最初から私ひとりだった。
その事実だけが、胸の奥で冷たく光っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
作者より
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
エレーナは、逃げることなく運命を受け取りました。
それが正解かどうかは、まだ誰にもわかりません。
次話から、新しい場所、新しい関係が始まります。
「死神侯爵」と呼ばれる男の、本当の顔を描いていきます。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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