身代わりで嫁いだ死神侯爵に、異常なほど溺愛されています
新川さとし
第1話 忘れられた娘
伯爵家の長女として生まれたはずの私は、いつから「家の中の余り物」になったのだろう。
私、エレーナ・ヴァルツは、使用人より先に起き、屋敷の床を磨き、冷えた水で洗い物も、洗濯物もする。
冬の水は刺すように冷たい。
食事は台所の隅で、前夜の残り物をそのままかき込む。せめて火を通したくても、私の使える燃料など一カケラもない。
バターの香りなんて、もう思い出せない。
食器を運ぶたびに、袖口から覗く傷が見えても、誰も何も言わない。
こんな私でも、母、セシリア・ヴァルツ――旧姓エーデルシュタインが生きていた頃は「お嬢様」だった。
母が亡くなって、屋敷の空気は変わってしまった。静かな家が、静かなまま冷たくなってしまった。
十歳の誕生日に「お前に新しいお母さんをプレゼントだ。可愛がってもらいなさい」と父が押しつけてきた。
父は、それだけを言うとすぐに「仕事が山積みだ」と王宮に戻ってしまった。
「よろしくね。エレーナさん」
「よろしくお願いします」
戸惑いはあったけど、家にいる父など見たことがない私は、単純に嬉しかったんだと思う。
やってきた、義母のオデット・ヴァルツは、ちょっと派手、というよりケバケバしかった。でも、最初は優しかったのは本当よ。少なくとも、外面だけは。
けれど、月日が経つにつれ、私の扱いは少しずつ下がっていった。「わざとではない」と言える程度の小さなことから始まり、もう覚えてない、ある日を境に誰もそれを隠そうとしなくなった。
そんなことを思い出していたら手が止まっていたのだろう。
ビシッと風を切る音。
「痛い!」
手をムチ打たれた。
「まだ終わっていないの? その皿、油が残っているわ」
昼食の片付けをしていると、義母の声が飛んできた。
私は「申し訳ありません」と言って皿を洗い直す。謝れば済む。反論したところで、何も変わらない。
厨房からチラリと見えるランチルーム。日当たりの良い窓辺には、義妹のクラリスが座っていた。
華やかなドレスの裾を揺らし、指先を眺めながら退屈そうに息をつく。
クラリスは伯爵家の娘として振る舞っている。自信に満ち、当然のように愛されるべきだと信じている。
私は、その隣に立つことすら許されないのが現実だ。
「エレーナ。水差しが空よ」
クラリスがこちらを見ずに言う。
私は急いで水差しを持っていき、黙って水を注ぎ足す。ここで、少しでも遅れれば、今度は背中に鞭が飛んでくるのだ。
クラリスが私の名前を呼ぶとき、そこには呼びかけの温度がない。道具を指すのと同じ声だ。
父であるアルベルト・ヴァルツ伯爵は、王宮内の自室に詰めきりだった。家の中のことなど、知ろうともしない。
戦後処理の仕事に追われ、アウレリア王国の書類と戦い続けているらしい。
お母様が亡くなってから、お父様がこの邸に泊まっているどころか、食事をしているのも見たことがないあり様だ。
伯爵としても官僚としても、周囲の評価が高いのは本当なんだと思う。
けれども家庭のことは、本当に見ない。
母が亡くなってからは、特にひどくなった。
お母さまが亡くなってから、一度だけ、義母に連れられて王宮の「執務室」に行ったことがある。
封蝋に王家の紋章が押された書状が、執務室の机に積まれていた。書状の山に埋もれるようにして眉間を押さえる姿があった。
ふっと顔を上げて目があった。
「大人の仕事だ。お前は気にしなくていい」
お父様は、そう言って、すぐに、書類に顔を埋めた。
父に話しかける勇気など、最初からなかった。
それに、話しかけなくても、ホンのちょっとでも「娘だ」と思えば、すぐに気付いたはずだ。
私の指先の荒れや、袖で隠した小さな傷を見る前に、髪の毛もメイドのように短く切りそろえ、着古した服を身にまとった姿が分からないはずがない。
父の部屋に案内する人は、私をメイドだと思い込んでいたのだから。
本当は、今の境遇を父にわかってほしかった。けれど、それを義母の前で言葉にしてしまえば、その後どうなるかわからない。
屋敷の空気が悪くなるだけではなく、常に義母が持ち歩く鞭が、背中の皮膚が破れるまで打たれるに決まっていた。
私は黙ることを選ぶしかなかった。
黙っていれば、私はここにいられる。
それが、私の生き方だった。
その日、午後の光が傾き始めたころ。
屋敷の前に見慣れない馬車が止まった。扉に、王家の紋章があった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
作者より
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第1話は、エレーナが声を失っていく過程を描きました。
彼女自身は気づいていませんが、この時点で、もう限界の一歩手前にいます。
次話から、運命は静かに、けれど確実に動き出します。
この物語が、誰かにとって「救われる話」になれば嬉しいです。
フォローや応援をいただけると、今後の更新の励みになります。
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