第3話 はじまりの提案
バランスを崩した体は、なすすべもなく背後へと傾いた。柔らかな土がクッションとなり、私の背中を優しく受け止める。視界の端に、泥に汚れたブーツが映った。
透き通った空。散らばる花びら。泥まみれの私。本日二度目の転倒である。もはや芸術の域に達しているのではないだろうか。
甘く湿った腐葉土の匂いに気をとられていると、重たい足音が聞こえてくる。一歩ごとに長い休符を挟むような、歯切れの悪い足音だった。慌てて体を起こした瞬間、首筋にヒヤリとした冷たい感触が走る。
「動くな」
喉の奥で押し殺した声が、私の鼓膜を震わせた。その手に握られた剣が小刻みに震えている。
ユーマが腕に少し力を込めるだけで、私の首は胴体とさよならをすることになる。ただ、首の骨というのは意外に硬いらしい。苦しまずに即死できるのか、それだけが心配だった。
そんな現実逃避を終えてユーマと目を合わせると、彼は弾かれたように視線をそらした。私を殺すことを怖がっているのか、転んだことを笑っているのか。どちらなのだろう?
スライムが、ぷにぷにとユーマの足に体当たりを仕掛けている。効いてるのかどうか分からないけれど、とにかく必死だ。健気すぎて、涙が出てくる。
スライムに守られてばかりもいられない。私はダンジョンマスターだ。指先が震えながらも、腹の底から魔力を練り上げた。ユーマの頭上に、歪な水の塊が現れる。
その瞬間。
貫くような視線が私を襲う。下腹部に貯蔵された、尊厳に関わる水分が漏れそうになり、魔力が霧散する。繋がりを絶たれた水球が、重力に従って落ちていく。
「あ」
私は小さく声を漏らす。ユーマの前髪から、雫がしたたり落ちる。出来損ないの噴水のようだ。彼は「無」の表情で虚空を見つめている。
……どうやら私は、自らに死刑判決を下してしまったようだ。控訴は間に合うだろうか。いや、そもそも控訴制度はあるのだろうか。
* * * * * * * * * * * *
ギシギシと骨が鳴る音が聞こえた。
俺の目の前には、全てを諦め、静かに最期の時を待つ少女の姿があった。
本当に、殺していいのだろうか?魔族は悪だと、そう教えられてきた。だが、眼前の少女は……。
つい先ほどまで、楽しそうに歌い……あんなおかしなダンスまで披露していた少女。
そんな彼女を、本当に“悪”と呼べるのだろうか?
ブーツの上から、鈍く重い衝撃が襲う。俺の渾身の一撃を防いだスライムだ。主を守るために、一心不乱に体を押し付けてくる。
正直に言うと痛い。かなり痛い。限界を超えた身体強化で、ふくらはぎが焼ききれそうだ。それなのに、追い打ちをかけないで欲しい。
蹴り飛ばしてしまえばいい。頭に浮かんだその考えを、即座に意識の外へと追いやった。
主を守ろうと、痛みに震えながらも必死に立ち向かう小さな命。このスライムを殺すことも、アグネスを殺すことも……きっと俺にはできない。
もしもダンジョンマスターであるアグネスを殺せば、俺は特別な存在になれるだろう。
『特別な存在』
その言葉が、胸の奥で何かを引っ掻いた。幼い頃から、特別な存在になりたいと願っていた。
要領のいい兄貴、可愛い妹。俺はその間で、いつも透明人間みたいだった。
「世界を救う旅に出る」
父さんも母さんも、兄貴も妹も、誰も俺を止めなかった。「頑張ってこい」という言葉すら、どこか上の空だった。
本当は、世界を救うなんてどうでもよかった。俺は俺のことしか考えていない。
冒険者になったのだって、一攫千金を夢見たからだ。実家の農業を継いだところで死ぬまで裕福にはなれない。だから、腕っぷし次第で大きく稼げる冒険者になった。
かっこよく魔物を倒して、大金を稼いで、女の子にモテて。男なら誰もが一度は夢見るような、都合の良すぎる人生を夢想していた。
だけど、強くなるには努力しなくちゃいけなくて、強くなっても油断すればすぐに死んでしまう。冒険者の暮らしは安定とは程遠くて……。実家に戻ろうか、なんて迷っている。
――本当は
誰かに愛されたかっただけだ。『特別になれば、愛してもらえるかもしれない』って考えて。
――だから
「勇者になるとか、大層なことを言ったんだよな」
この少女を殺しても、俺は何も変わらない気がした。
* * * * * * * * * * * *
カチンッ
剣を鞘に収める音が、静かに響いた。
……ん?
今、何が起きたのだろう。私の理解が追いつかない。首を斬られる覚悟を決めていたのに、なぜか生きている。
これは夢だろうか。それとも、既に死んでいて、死後の世界で困惑しているのだろうか。
恐る恐る首に手を当ててみる。繋がっている。血も出ていない。どうやら生きているらしい。
足元では、スライムがぷるぷると震えながらも、まだユーマを警戒している。
ユーマは遠い目をして虚空を見つめている。その表情は「人生とは……」とか呟き出しそうな哲学者のそれだ。
待ってほしい。彼は確か、私を倒して勇者になると言っていなかっただろうか。それなのに、急に悟りを開いたような顔をされても困る。
瞬きを忘れて解を求めていると、ユーマが自嘲の笑みを浮かべながら「俺には、お前を殺せない」と呟いた。
「勇者になるなんて、無理だったんだ」
……そうか、きっと私のような雑魚相手に辛勝したことで、自信をなくしてしまったのだろう。
つまり、私が弱すぎたせいで、彼の心が折れてしまったのだ。なんだか申し訳ない気持ちになる。
だが、このまま彼が帰ったとしたら、私はどうなる?また次の冒険者が来たとき、今度こそ本当に殺されてしまう。
ユーマは私を殺さなかった。その事実が、小さな希望を灯す。彼は強さを求めている。私は生き延びる方法を求めている。ならば、取引ができるのではないだろうか。
「あの、一つ提案が……」
掠れた声を絞り出し、ユーマに話しかける。感情のスイッチが切られた瞳が、ゆっくりと私に向けられた。返事はない。だが、聞く意思はあるようだ。
息を整え、私は続けた。
「このダンジョンをあなたの『修行場』として利用しませんか?」
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