第15話
ルドヴィカは内心では、いつか教会の外にあるだろう墓地を歩いてみたいと思っていた。
墓地なんて楽しむような場所ではないが、この北の地に生まれた人々の名を読みながら、墓を巡って歩いてみたいと思った。
サンドラも、きっとここに眠っているのだろう。彼女が見舞っただろう騎士の墓はどこにあるのだろう。できることなら彼女の墓石に手を合わせたいと思うが、それはウォルターとアーチーとの約束を破ることになってしまう。
ここに足を運ぶことも、ウォルターにしてみれば充分譲歩したものだろう。屋敷から外に出ないことをルドヴィカは言い含められている。
『ルドヴィカ、大人しくしているんだ。間違っても逃げ出そうとするんじゃないぞ』
マクシミリアンはそう言った。逃げ出すなと言ったのである。それは即ち、屋外に出てはならないということだろう。
あんな、眉を寄せて何かを堪えるような笑みを見せて。
マクシミリアン様、貴方は今頃どうしているの?ちゃんと笑っているのでしょう?
この日も老司祭とのささやかなお茶会を楽しみながら、ルドヴィカはマクシミリアンを思い出し、やはり教会からは外に出てはならないと思い直した。
窓の外は真っ白な雪の世界だ。
ここは麓よりも山を登ったところで、どうやらルドヴィカのいる屋敷の斜め下方に位置するようだった。
多分、外に出たなら麓の様子が屋敷よりも近く見えるだろう。それはウォルターが、何かの拍子に席を外すことからも
ルドヴィカを屋敷から出してしまったことで、周囲を警戒しているのか、若しくは屋敷よりも間近に見える、麓の様子を確かめているのか。
時にはウォルターと代わってアーチーが外に出ることから、どうやら彼も辺りを警戒しながら偵察しているのだと思った。
だがその日、異変に気づいたのはウォルターでもアーチーでもなかった。
「ん?熊が出たかな?」
「え?」
熊?ルドヴィカは唐突に飛び出た単語に、絵本の挿絵で見たつぶらな瞳の熊を思い出した。
お茶を楽しみながら、老司祭は薬草茶の材料とその選別についての持論をルドヴィカに展開しているところだった。それが、ん?と窓へ視線を向けた。
丁度、アーチーが外に出ていた。熊が現れたなら、アーチーが危ない。
そう思った途端、ルドヴィカは椅子から立ち上がり、部屋を出ようと扉に向かって走り出した。老司祭はその俊敏な動作に目も身体もついていけなかった。
「ルドヴィカ様、ここから出てはなりません。私が見てまいります」
そばにいたウォルターがそう言って、ルドヴィカを止めた。
考えてみれば、ルドヴィカはこの応接室と霊廟のある場所しか教会の内部は知らない。そもそも、どこから外に出るかもわからない。何より、熊と戦う武器も力も持ち得なかった。
ここに来る時には、ウォルターも帯剣していた。ルドヴィカを屋敷から出すことに、彼も相応の支度をしていた。
無理をしないでと言う前に、ウォルターは部屋を出ていった。それはとても意外なことに思えた。
彼が監視対象を置いていくなんて。
ルドヴィカが逃げ出さないと信じているのか、それとも、目の前の老司祭にルドヴィカを預けたつもりなのか。
もしかしたらこの老人は、とてつもない猛者なのかもしれない。あり得ない発想を抱いてすぐに、それはないと考えを改めた。
彼は、ルドヴィカの素早い行動に目をしばたたかせて、椅子から立ち上がることもできなかったのである。
聖職者であるのは確かだが、猛者なんかであるはずもない。
「ふうん。来ますな」
老司祭の軟弱ぶりについて考察していた失敬なルドヴィカに、彼は何事もないような口ぶりで言った。
「来る?それは熊?」
老司祭は、スンスンと鼻を鳴らした。まるで何かの匂いを確かめるような素振りを見せた。
「ルドヴィカ様。慌てることはございません。さあ、私の後ろに」
そう言って、老司祭はどっこいしょと椅子から立ち上がり、テーブルを回り込んでルドヴィカの前に来た。見上げたルドヴィカに、ニコリと微笑むと、背に隠すように立ち塞がって扉の方へと向き直った。
その途端、扉が大きな音を立てて押し開かれた。黒いものが扉を覆い尽くして、室内が暗くなったような錯覚を覚えた。
椅子に座ったまま老司祭の背中から顔を出していたルドヴィカは、驚いた瞬間に飛び跳ねるように立ち上がった。
「熊!」
大きな影は獣だった。獣は爛々と光る琥珀色の瞳をして、こちらを見た。褐色の肌に亜麻色の髪の毛が見えた。
亜麻色の髪の毛?
ルドヴィカは混乱した。獣は焦げ茶の毛で覆われている。なのに、瞳と素肌と長い髪、それは人の姿である。
「あれ?」
「ルドヴィカ様、動いてはなりません」
体力ゼロの老司祭に言われても微塵も当てにならないのに、なぜかルドヴィカは老司祭のことを心強いと思えた。
「あれは熊ではございません」
その言葉と同時に、熊は後ろに引き戻された。
アーチーとウォルターが背後にいるのが叫び声でわかった。
「ルドヴィカ様!部屋の奥に!」
アーチーの声に、弾かれたようにルドヴィカは、老司祭の腕を掴んで部屋の奥に後退しようとした。だが、一歩も下がることはできなかった。
重石のように老司祭は、少しも動くことはなかった。どんなにルドヴィカが引っ張っても、彼は微動だにせず1ミリも動かない。
老司祭は驚くほど体幹が優れており、痩せた身体からは窺い知れない力を保持しているようだった。
そして黒い大きな影は、熊ではなかった。
「
アーチーが、大きな影を後ろから蹴り倒した。そのまま前のめりに倒れ込んだ
「貴様、何者!」
倒れ込んだ時に、熊から皮が剥けるように中からするりと人が現れた。彼は熊の毛皮を着込んだ人間だった。
倒れる間際に目が合った。
褐色の肌から琥珀色の瞳がこちらを見て、彼はルドヴィカの姿に目を見開いた。
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