第3話
「殿下?」
「君は、いつから夫を敬称呼びするようになったんだ」
灯りを落とした暗闇の中に、二人の声が小さく響いた。
ルドヴィカは半身を起こして夫を見上げた。暗がりでは、その表情はよく見えない。
マクシミリアンはどうしてここにいるのだろう。側妃だ離縁だと言い合ったあとで、ルドヴィカが夫妻の寝室で寝ることを拒んだからか。
どうしてここへ?と尋ねる前に、マクシミリアンが上着を脱いだ。彼はまだ公務の服装のままで、きっと今の今まで執務を熟していたのだろう。
マクシミリアンは、薄い寝間着姿のルドヴィカに脱いだジャケットを羽織らせた。
ふわりと
なにが起こったのかもわからずに、夫を見上げたルドヴィカだった。
そこでマクシミリアンは行き成りルドヴィカに覆い被さった。
「な、なにを……」
「静かに」
驚くルドヴィカを黙らせて、マクシミリアンはそのまま半身だけ身を起こしていたルドヴィカを抱き上げた。「よいしょ」と彼が漏らしたことに、ルドヴィカは自分が重いのだと言われたようで、「は?」と言い返しそうになった。
マクシミリアンは寝間着にジャケットを羽織ったままのルドヴィカを抱き上げると、そのまま部屋を出てしまった。
扉の前には近衛騎士らが待機しており、彼らに四方を取り囲まれて、マクシミリアンは回廊を突き進む。
「どこへ」
「舌を噛むよ」
どこへ行くのと尋ねたのに、マクシミリアンに遮られてしまった。
よいしょと言って持ち上げたくせに、マクシミリアンは大股になって歩く。むしろ走るような速度だった。
回廊の先がどこかわかって、ルドヴィカはまさかと思った。
マクシミリアンは馬車寄せに向かっている。ルドヴィカはしどけない寝間着姿であり、恥ずかしくもそれを近衛騎士らに晒していた。
夫が被せたジャケットだけがルドヴィカを守るものだった。この姿のまま、彼はルドヴィカをどこへやるつもりなのか。
素肌の足に冷たい風を感じたのは、馬車寄せに着いたからだった。
ルドヴィカを抱えるように抱き締めたマクシミリアンの拘束が思いのほか強く、振り返って確かめることはできなかった。
背後には、きっと馬車がある。ルドヴィカはこのままどこかへやられる。どこ?と考えて、生家に戻されるのかと考えた。
王太子妃である筈の娘が、こんな夜更けにこんな姿で帰されるなんて。母はきっと、卒倒してしまうのではないか。父は、と考えたときに、もうこうなることを父は知っているのだと思い至った。
側妃になることを拒んだ妃は、とうとう離縁が決まったのだろう。
彼は今の今までそのことを、陛下や重鎮たちと話し合い、ルドヴィカの処遇を決めたのだろう。
離縁だとしても、ルドヴィカはなにも聞かされてはおらず離縁誓約書に署名すらしていない。
胸が痛むそのわずかな隙さえ別れる妻には与えないのか、マクシミリアンは駆け上がる勢いでステップに乗ると、そのままルドヴィカを馬車の中に押し込んだ。
「ルドヴィカ、大人しくしているんだ。間違っても逃げ出そうなんてするんじゃないぞ」
それが彼の声を聴いた最後だった。
馬車の中にはすでに誰かがいて、マクシミリアンから引き取るようにルドヴィカを背中から受け止めていた。
扉が閉まる瞬間に、マクシミリアンと目が合った。なんでそんな顔をするの?ここに放り込んだのは貴方じゃない。
マクシミリアンは眉を寄せて、それでも無理に笑みを浮かべる、そんな顔をしていた。
自分がどんな顔をしていたなんてわからない。
もしかしたら諦め切った、そんな表情をしたかもしれない。
最後くらい、身奇麗な姿でいたかった。
こんな寝間着に素足のまま、髪を梳くこともないままに、貴方と最後になるなんて。
「マクシミリアン様!」
思わず叫んだと同時に、馬車の扉が閉められた。
「マクシミリアン様!」
もう一度叫んだときには、馬車は走り出していた。
彼が最後に言ったことを、ルドヴィカは思い返した。
『大人しくしているんだ。間違っても逃げ出そうなんてするんじゃないぞ』
手放したのは貴方のほうじゃない。情けなくて哀しくて、どうにもならない。
一度は自ら離縁を望んだ筈なのに、こんな別れがしたかったわけではないと思う。
「ルドヴィカ様」
背中から温かな身体に抱き留められていたことに、そこで気がついた。
振り返らずともわかるのは、その声の主がルドヴィカの侍女だからだ。
「ブレンダ」
「はい」
ふくよかな身体に背中を預けたまま、ルドヴィカは侍女の名を呼んだ。彼女は生家にいた頃からのルドヴィカ付きの侍女である。
マクシミリアンに輿入れする際に、生家から連れてきた。令嬢時代も王太子妃になってからも、ルドヴィカが頼りにしていた侍女である。
「ごめんなさいね」
「ルドヴィカ様……」
「貴女を巻き添えにしてしまったわ」
「そんなことはございません」
ルドヴィカは、この先どうなるのだろう。マクシミリアンが何の説明もしないとは思わなかった。ルドヴィカの知る限り、彼ほど思慮深く賢く義理堅い人はいない。
それなのに、あんな寝込みを襲うように着替える時間すら与えずに、「さようなら」も言わせてくれないなんてそんなこと。
「あの」
そこで横から声がかけられ、ルドヴィカは馬車の中にもう一人いることに気がついた。
「あ……、ルドヴィカ様」
ルドヴィカは彼の姿に驚いた。思わずマクシミリアンに被せられたジャケットを前で掻き寄せた。男性の前にいるにはあまりに無防備な姿であった。
「なぜ貴方がここに」
「私は貴女の護衛です」
「そんなまさか」
王城にはルドヴィカの護衛騎士らがいた。彼らは王族専属の近衛騎士たちだった。だが、ここにいるのは彼らの中の誰でもない。
「アーチーと」
「え?」
「私のことはアーチーとお呼びください」
「……」
こうしてルドヴィカは、凍てつく冬の真夜中に、馬車に放り込まれるようにして王都を出たのであった。
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