橘が香る

柳 千鶴

橘が香る

朝、目が覚めてすぐにキッチンに立つ。

実家で過ごしていた頃は、布団から出ることが億劫で、よく二度寝をしていた。上京して一人暮らしを始めたばかりの頃も、その癖は治っていなかった気がする。その癖がいつのまにかなくなって、今では毎日同じような時間帯に目が覚める。

キッチンでやることは、自炊ではない。

コップに水を注いで、決まった量の薬を飲む。 朝と夜の薬の区別はついているが、それぞれが何に作用しているのかはあまりよく知らないし、知りたくもない。だから、行きつけの薬局の薬剤師から必ず飲み忘れないようにと念を押されていることだけを覚えている。


大学に入学して早くも一年が経とうとしているようだ。気がつけば街を歩く人々は冬の装いであった。服装に無頓着な自分が唯一クローゼットをひっくり返すのが、衣替えの時期だ。そうは言っても、都内で学生が一人暮らしする小さなアパートのクローゼットはお世辞にも大きいとは言えないからそうするのを強いられているだけである。もしも季節という概念が存在しないか、標準的な大きさのクローゼットであれば、衣替えすらもしないだろう。

親からの仕送りは、ろくな趣味もなく、友人もいない自分が生活するには十分な金額であったから、アルバイトもしたことがない。

この一年、ほとんど大学と自宅の行き来しかしていない。たまに病院に行く程度だ。

高校時代はそれなりに友人がいたし、部活にも打ち込んでいた。大学生活が始まると、友人を作るだとか、サークルに入るとかそう言ったことにまったく興味を持てなくなっていた。全てが、どうでもよかった。


平日は大学の授業があるので、それを基準に行動している。しかし、休日はそうもいかない。予定があることなんて無いし、どこか行きたい場所もない。だから、家でなんとなくテレビをつけて、ただじっとしているだけである。チャンネルにも特にこだわりは無いが、なんとなく実家でよくついていたものを選んでいる。

垂れ流しにしているテレビから聞こえた『冬到来』という言葉で、衣替えをしなければならなかったことを思い出した。


小さなクローゼットの中にしまっていた段ボールに手をかけて、それが上京してきてからそのままの状態であったことを思い出した。

カッターの所在が思い出せず、そのまま手でこじ開けると、中には綺麗に畳まれた服と、一枚の紙が入っていた。久しぶりに見た、母の字である。

冬服の中には洗濯機で洗えないものがあることや、ひどいシワがついているものはクリーニングに出すように、という内容だった。

ハンガーに吊るしていた夏物のシャツを手に取り、一つずつ外す。そこに、箱から出した冬用のシャツを出して吊るし直す。一つずつ、着実に進めているけれど、どこか現実味を欠いていて、夢の中にいるような心地がする。

ふと、手が止まった。セーターが目に止まったからだ。自分では好んで買わない、赤いセーター。

誰かからもらったプレゼントであったと思う。

なぜか、使いたくないと思った。自分が選ばないような色だからではない。なぜかなのか、その理由を考えようとして、やめた。考えても何もわからないし、分かりたくも無い気がしたからだ。


無事に衣替えが済み、当分は用のない夏服たちを元の段ボールに戻した。本当はそのために箱を買った方がいいのかもしれないが、大きさをあれこれ考えるのが面倒だし、外出する気にならない。

クローゼットにも箱にも入らなかったのは、あの赤いセーターと、目立つ皺がついたシャツだった。セーターには洗濯タグが付いていなかったから、シャツをクリーニング店に持って行くついでに尋ねてみようと思ったからだ。

久しぶりに、大学と病院以外の用事で外出する。食事を完全栄養食なるものを謳うパンで済ませているから、自炊のための買い物にも、外食をしに行くこともない。

玄関を開けて、冬の曇りかかった空を眺める。そこで、クリーニング店がどこにあるのか知らないことに気がついた。スマートフォンで検索すると、歩いて数分の距離に個人経営の店がヒットした。

その店は、思ったよりも近くにあった。駅とは真反対の方向の、住宅街の中に佇んでいる。

手に持っていたシャツとセーターを脇に挟んで、少々建付けの悪い引き戸を開けると、暇そうに座っていた店主らしき初老の人物がこちらを見て立ち上がる。

「いらっしゃい。お客さん、うちは初めてだよね」

「はい」

「今日は、そのセーターとシャツかな」

「はい」

「ちょっと貸してね。シャツは皺が気になるのかな」

「はい」

「それで、こっちのセーターは…特に目立った汚れはないけど」

「このセーター、タグが無いんです」

だからどうした、とでも言いたげな目をこちらに向けてくる。

「引っ越してきたままにしてた箱に、入ってて。でもこれ、自分は着たいと思わなくて。でもやっぱり、タグが無いのはいざと言う時に良くないと思って」

思ってもいないことを、よく考えもせずに口に出す。病院で話を聞かれる時と同じような感覚だ。

自分が本当は何をしたいのか、何を考えているのかが分からない。

「いざと言う時っていうのはつまり、これを洗濯するときということだけど。着たくないなら困らないんじゃないかな」

「そうなんです、困らないんです。でも、知っておかなきゃいけない気がするんです」

しばらくセーターを見つめたあと、店主は言った。

「よくわからないけど、このセーターは多分手編みだよ。誰かから貰ったもの?」

手編み、貰い物、セーター。3つの単語が頭の中をぐるぐると回って、考えようとした瞬間にどこかへと消えていった。

「わからないです、多分そうかもしれないけど、それはどうでもいいんです。って言うか、セーターとか最初からどうでもいいんです」

早口で、捲し立てるように言った。相変わらず支離滅裂なことを言っている。特に暑いわけではないけれど、手の内側には、じっとりとした汗が滲んでいた。

「そうか。そういうこともあるかもしれないね。とりあえず、今日はこのシャツだけお預かりしますね。仕上がりは…」


そこから、店主が言っていた言葉は覚えていない。何故か酷く疲れていたからかもしれない。

気がついたら、セーターを握りしめてアパートの前に立っていた。鍵を開けて部屋に入り、そのままベッドに倒れ込んだ。何も考えないで、このまま消えてしまいたいという衝動に駆られて、また意識が途切れてしまった。


目が覚めたとき、部屋の中は暗闇だった。

ポケットに入ったままにしていたスマートフォンを見ると、夜中の3時であった。普段は薬の影響か、こんな時間に目は覚めない。起きたら薬を飲むという習慣は、寝る前に薬を飲むという習慣によって成り立っているのだ。

だから、ひとつが崩れたら全てが次々に崩壊していく。

昼間は全く目に気にならなかった、パンの袋。どこから出てきたのか分からないチラシ。床に雑に置いてある通学用のリュックサック。ひとつひとつが目に入る。ここ1年弱食べ続けているパサパサのパンは同じ味で、もう食べ飽きた。誰にも頼んでいないのに投函されるチラシが邪魔だ。掃除をしていないから部屋が少し埃っぽい。

手に握りしめたままになっていたセーターに目が向いた。自分では選ばないような、赤いセーター。クリーニング屋の店主にタグがないと訴えたが、当たり前のことだ。


このセーターは、幼馴染が作ってくれたものだった。2年前の、ちょうど今くらいの季節。幼稚園に入る前からずっと一緒だった彼女が、病室で編んでくれた。服に無頓着な自分が、いつまでも薄着でいることを気にしてのことだった。

「ともくん、いつも薄着で風邪ひいてるんだから。これ着て、ちゃんと暖かくしてね」

私がいなきゃ本当に駄目なんだから、というのが彼女の口癖だった。

「お母さんが買ってきた毛糸がこの色だったの。セーターにしてはちょっと派手かなと思ったけど、編み始めてみたら思ったよりもかわいいよね」

こんな色着たことがないと言うと、

「じゃあこれが最初ね。ともくんはもっとおしゃれに気をつかったほうがいいよ」と言った。

そんな会話をしている間もせっせと手を動かしていて、何が楽しいんだろうかと呆れていた自分がいたことを思い出した。

きっと、何が楽しいとかそういうことではなかった。今考えたらわかる。無機質な病室の中、まともな娯楽も自由もない空間で頼れるものは、見舞いの時の会話と思い出くらいだったのだろう。

あのとき俺は、全く彼女の病気について知ろうともしなかった。突然入院した、すぐに良くなると親から聞いて、疑いもしなかった。だから、適当な軽口を叩いて、特別な話なんかしなかった。

見舞いに行ったある日、彼女は言った。

「あと少しで編み上がるの。次の手術には間に合いそうだからよかった」

手術をすることに驚くと、

「ともくんはほんとに私に興味無いんだね。少しは心配してくれたっていいのにさぁ」

と拗ねた表情をしていた。

「手術終わったら、これ取りに来てね。絶対似合うから楽しみにしててよ」

「うん。じゃあまた、手術明けにね」

「またね、来てくれてありがとう。ばいばい」

セーターを編む手を止めて片手で手を振る。

これが、彼女との最後の会話だった。


手術中に容態が急変したと母は言っていたけれど、葬儀で盗み聞きした話は違った。

最初から、病気が治る可能性は低かった。手術をするのは本当だったけれど、成功率は高くなかったようだった。

あの時もっと色んな話をすればよかったとか、病気になる前にこういうことをすればよかったとか、そんな後悔が頭から離れなかった。高校を卒業するまでは、両親や同級生のおかげで日常生活を送ることができていた。というか、そうしなければ彼女が心配をすると思い込ませて必死で生きてきた。それが、大学に入って上京、一人暮らしを初めて破綻してしまった。


誤魔化しを続けた結果、どうにもならないところまで来てしまっていた。通院しても、カウンセリングと薬で何かが変わるわけではない。話をすれば気持ちが軽くなるというのも誤魔化しの一種で、結局は薬で有耶無耶にするしかない。

何の薬なのか、なぜ飲んでいるのか普段考えないのも、知りたくないと思っているからだ。

彼女がもうこの世にいないということも、あれが最期の会話だったことも、本当はずっと忘れてなんかいなくて、忘れたふりをしようとしていることも、全部わからないでいたい。

わかってしまったら、こうやってどうしようもない考えばかりが反芻して、後悔を重ねること以外、何も出来なくなってしまうから。


握りしめたセーターに顔を埋めた。葬式の後、彼女の母親が渡してくれた。完成したセーターを自慢気に見せてくれたの、と言って涙を流していた。

その頃には自分の涙は枯れ果てていて、ただ呆然とすることしか出来なかった。たった数日前まで話していたんだ。目を開けて、眠いなら目を開けなくたっていい。まだ話し足りないんだ。君がいなければ僕は何も出来ないから、起きてまた仕方ないなと言ってくれ。火葬場で、本当の最期の別れを告げることすらできなかった。まだ、生きていた気がした。それは、今も変わらない。彼女という存在が消えてしまったことが、信じられない。


彼女の死から2年が経っても、立ち直ることなんてできなかった。人は、愛する人の死を乗り越えたりしていないんだと思う。思い出すのが辛くて堪らなくて、その中に少しずつ楽しかった思い出が顔を出すようになってから、乗り越えたと錯覚するのかもしれない。あるいは、乗り越えたと思わなければ生きていけないのかもしれない。

自分はそんなに強くなかったから、思い込むことすらできなかった。そうして、彼女の存在ごと無視し続けていた。


「俺、夏帆のこと、もう忘れたくないんだ」

暗闇に向かって、そう呟く。決して強くはないけれど、彼女への後悔を重ねて、共に生きていく方がいいと強く思った。主治医の治療方針とか、薬剤師の忠告とか、そんなものはどうだっていいんだ。最初から、忘れることなんてできなかったんだから。彼女が生きたということの揺るぎない証を、優しく撫でた。

セーターからは、橘の香りがした。

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