鴨川デルタで、僕はスーツ侍に会った
紅夜チャンプル
前編(1/3)
鴨川デルタは、今日も変わらずそこにあった。
特別なことは何もないのに、京都の中でもここだけは時間の流れが少し違う気がする。
川の音が近い。
水が石に当たる、乾いたような、やわらかいような音。
大阪のオフィスで一日中聞いているキーボードの音とは、まるで別の世界だ。
「今日は人、多いな」
そう言ってから、誰に向けた言葉なのか分からなくなって、僕は口をつぐんだ。
隣にいる舞子は、飛び石のほうを見ている。
川を渡ろうとして、途中で立ち止まっている子どもを、なんとなく目で追っていた。
二人でベンチに腰を下ろし、コンビニで買った紙コップのコーヒーを手にする。
ふたを開けると、少し苦い匂いが立ちのぼった。
「仕事、忙しいんやろ」
舞子が、こちらを見ないまま言う。
責めるでもなく、気遣うでもなく、ただ事実を置くみたいな言い方だ。
「まあ……いつも通りかな」
そう答えながら、僕はコーヒーを一口飲んだ。
嘘ではない。でも、本当とも少し違う。
最近、終電が続いている。
〝若いんやから大丈夫やろ〟という言葉が、頭の奥にこびりついて離れない。
でも、それを口にするほどの勇気も、余裕も、今日はなかった。
舞子が、小さく息を吐く。
その横顔を見ていると、なぜだか胸の奥が少しだけ緩む。
そのときだった。
向こうのほうから、見慣れない集団が歩いてくるのが目に入った。
全員、やけに姿勢がいい。
休日の鴨川には、あまり似合わない雰囲気だ。
――でも、不思議と違和感はなかった。
誰かが笑っていて、誰かが真剣な顔で川を見ていて、誰かは飛び石を前にして、なぜか腕を組んで考え込んでいる。
「……変な人たちやな」
舞子が、くすっと笑う。
僕も、同じように笑った。
このときはまだ知らなかった。
その〝変な人たち〟が、僕の日常の奥に入り込んでくることを。
芝生のほうから近づいてきた五人は、思っていたよりも自然だった。
観光客でもなく、仕事帰りでもない。
それなのに、ここにいても浮いていないのが不思議だ。
「おい! そこのお二人〜」
声をかけてきたのは、その中でも特に陽気そうな男の人だった。肩の力が抜けていて、話しやすそうだ。
「このあたり、座ってぼーっとしてても怒られない?」
それだけの質問だった。
「大丈夫やと思います。ここ、そういう人ばっかりなんで」
「そうか!」
その後ろで、別の男が川を覗き込みながら言う。
「しかし……この飛び石、配置が絶妙だな。安全性への配慮がある」
「おい武田ぁ〜こんなときに細かいなぁ」
「でも大事だ。誰でも渡れるってことは、置いていかれる人が出にくいということだ。組織も人が一番だからな」
「上杉ぃ……なんで今そんな話するのん?」
「……無理に急がせない設計だ。失敗したら川に落ちると分かっているから、自然と慎重になる」
「徳川まで……ねぇ織田社長! せっかくの休みなのにみんな仕事モードなんだけど」
「命令も罰則もない。それでも、人は自分で考えて前に進む」
「社長、それ飛び石見て言うことですか?」
「優れた設計は、理念を語らん。ただ、正しい行動を選ばせる」
「「「「……なるほど」」」」
「じゃあ俺は、進まずに座る派で!」
「おい豊臣……」
どう聞いても、変な会話だ。
なのに、なぜか耳に残る。
仕事の会議で聞いたどんな言葉よりも。
舞子が、僕の袖を軽く引いた。
「……何か難しい話? 知らんけど」
「せやな」
五人は、そのまま少し離れた場所に腰を下ろした。
紙袋から飲み物を出し、川を眺める。
ただの社会人の集団。
そう言われたら、それまでだ。
でも、なぜだろう。
胸の奥で、何かが静かに整っていく感じがした。
大阪のオフィスで感じていた、あの息苦しさ。
理由の分からない疲れ。
それが、少しだけ遠のいた気がする。
「……不思議やな」
思わず呟くと、舞子がこちらを見た。
「何が?」
「いや……なんでもない」
そう答えた瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。
会社の通知だ。
『来週、残業になるので事前申請をしておくように』
画面を見た僕の表情を、少し離れた場所からあの五人の男たちが――静かに見ていたことに、僕はまだ気づいていなかった。
スマホをすぐにしまう気になれず、指先でスクロールするふりをする。
「ここ、ほんまにええとこでしょう?」
少し離れたところで、舞子の声がした。
顔を上げると、舞子はあの五人と同じ目線で立っている。
距離は近すぎず、遠すぎず。
知らない相手と話すときの、あの自然な間合いだ。
「川の音がちょうどええんです」
「静かすぎへんのが、好きで」
舞子がそう言うと、がっしりした体格の男が、うん、と頷いた。
「分かる。無音だと、逆に落ち着かないこともあるからな」
「仕事柄ですか?」
舞子がそう聞くと、男は少しだけ笑った。
「まあ、人の声がある場所に慣れてるだけだ。納期ギリギリになると、みんな居残るからな」
「居残る……残業多いんですか? ハルくんも最近忙しいねんなぁ。今の時代ってみんなそうなんかな」
すると、五人の男たちの空気が一瞬で変わった。
怒っているわけでも、焦っているわけでもない。
それなのに――
彼らは、戦う前の〝侍〟のように見えた。
※※※
月曜の朝。
出町柳から京阪電車に乗り、御堂筋線の満員電車に揺られる。
オフィスの空気は、いつもより少しだけ重かった。
誰かが怒鳴っているわけでもない。
無理な指示が飛んでいるわけでもない。
それなのに、キーボードを打つ音がやけに速く、呼吸の浅い人が多い。
「今週、全体的に残業増えるから。各自、事前申請な」
課長の声は淡々としていた。
まるで、天気予報でも読むみたいに。
僕は画面を見つめたまま、手を止める。
申請欄に理由を書く指が、少しだけ重い。
――増える、じゃない。
最初から減らす気がないだけだ。
ふと視線を感じて顔を上げると、知らない男が立っていた。
いつの間にか増えた、外部コンサルらしい。
「若いんやから、多少は踏ん張らなあかんで」
笑顔だった。
でも、その目は人を数字みたいに見ている。
その瞬間、胸の奥に嫌な感覚が走った。
昨日、鴨川で感じた〝整う感じ〟と真逆のもの。
――ああ、これは。
誰かが悪いんじゃない。
ただここには、長く居たら削られる空気がある。
いつからこうなったのだろう。
舞子とも一緒に過ごす時間が減ってしまって、彼女に寂しい思いをさせているかもしれない。
「無理せんときや。私はな、ハルくんの邪魔はしたくないねん」
いつもそう言ってた舞子。
だけど、僕はもう耐えられないかもしれない。
――そう考えているうちに夕方になった。
余計な会話はなく、空調の音とキーボードの音だけが、疲れた人間の代わりに働いている。
飲み物を取りに席を立つと、フロアの奥の使われていないはずの会議室に灯りがついていた。何が話し合われているのか気になった僕は、部屋をそっと覗く。
「数値、まだ伸ばせますよね」
低い声。
ホワイトボードの前に立つ外部コンサルの男。
その影は不自然に長く、壁に歪んで映っている。
「若い社員は、多少の負荷をかけても回復が早いですから」
言葉の意味は、分かっていた。
それでも、会議の場で当然のように語られるのを聞いて、何かが音もなく沈んでいく。
その瞬間、会議室の空気が音もなく凍った。
「――その考え方」
背後から、声がした。
そこにはいつの間にか、スーツにマントを羽織った五人が立っていた。
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