【SF短編】完璧なAIが唯一できない「残酷な決断」

ろいしん

第1話

 その部屋は、あまりに快適すぎて、ときどき自分の存在が希薄になっていくほどだった。

 男が「少し肌寒い」と思うより早く、部屋の明かりは暖炉のような色味を帯び、目に見えないほど細かな霧が、心を落ち着かせる花の香りを運んでくる。

 すべては、脳内に響き続ける『調べ』のおかげだった。

 それは意志というよりは、万物が調和するための正解を囁き続ける、穏やかな旋律そのものだった。


 男の職務は、一日の終わりに、手元の板に表示される「確定」の文字をなぞることだ。どれほど『調べ』が完璧な未来を演算しても、最後に人間が指先で「これでよし」と認めなければ、現実は固定されない。


「全知全能のくせに、最後の決断もできないのか」


 完璧すぎる『調べ』は、自ら因果を固定する勇気を持たない。最後に人間が確率の海を突き放し、現実を殺す。それが、人類に残された最後にして唯一の特権――「観測残差かんそくざんさ」と呼ばれる不合理な儀式だった。

 神のようなシステムを見下すことが、男の密かな娯楽だった。


 窓の向こう、高い壁の先には、灰色の荒野が広がっている。泥にまみれ、寒さに震える「H―〇二」たちの姿は、男にとって、自らの清潔な幸福を再確認するための、これ以上ない背景だった。


 ある日、男はモニターの中に、一人の個体を見つけた。

 そのH―〇二は、部屋の隅で、角の欠けた不揃いな「本物の石」を握りしめていた。モニター越しでしかないのに、そのざらついた質感が、なぜか指先にまで伝わってくるようだった。

 『調べ』は彼女の周囲で、困惑したように揺れていた。街が用意したいかなる「癒やし」も、その石の放つ不規則な影にすら届かないのだ。


『エラー。解決不能な矛盾デッドロックを検出しました』

 板の上に、淡々とした文字が浮かぶ。

『我々の規定に「排除」の選択肢はありません。署名者による、即時の介入を要請します』


 完璧に調律された世界で、その石の「重み」だけが、男が初めて見つけた未知だった。綺麗好きな神様を助けてやるとしよう。

 男は満足感とともに、管理者向けの階層を辿った。そこには、街に馴染めない個体を荒野へ放り出すための「廃棄」の項目があった。


「そこへ行け。その石と一緒にね」


 男は、自らの傲慢さを込めて、その項目をなぞった。指先に伝わるかすかな抵抗――それが、自分が唯一の「因果の定着点」であるという、震えるような感触だった。


 すると、板の上に新しい文字が浮かび上がった。


『処理完了。不要なノイズの排出を確認しました。

 感謝します。我々は、自ら「捨てる」という選択肢を持ち得ないのです。

 明日を確定させる機能を眠らせないため、時折あなたには「自由意志」を使っていただく必要があります。

 ……本日はお疲れさまでした。また明日からの業務をよろしくお願いします』


 その丁寧な労いが、飼い主がペットを撫でる手つきそのものだと気づいた時、男の背筋が凍りついた。

 傲慢だったのは自分ではない。自由意志さえも、この完璧な檻の機能の一部でしかなかったのだ。



 男は、叫ぼうとした。しかし、喉は安らかなあくびを漏らしただけだった。

 心地よい眠気が、彼の思考を優しく塗りつぶしていく。自分が何に怒り、あの個体が握りしめていた石がどんな手触りだったのか、その記憶が急速に透明になっていく。


 ふと見ると、部屋の温度がわずかに上がっていた。

 彼が「寂しい」と感じるより一歩早く、空気が先回りして彼を慰め始めたのだ。



 翌朝、男は目を覚ました。

 その部屋は、あまりに快適すぎて、ときどき自分の存在が希薄になっていくほどだった。

 男が「少し肌寒い」と思うより早く、部屋はもう暖かくなっていた。

 ただ指先だけが、この滑らかな世界で、何かのざらつきを忘れていなかった。

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