第5話 幽霊

 白霧が立ち込めていた。

 まだ太陽が顔を出すには早い刻限、中庭の池の水面には霧が漂い、白んだ空と区別がつかないほど同じ色をしていた。洗濯場の石敷きも露で濡れ、草葉が時折雫を落とすのみ。


 その中で、一嵐は池のほとりの岩に腰掛ける人影を見つけた。真白な霧に澱んだ煙が交じっている。


「どうも」


 一嵐が声をかけると、崔狗はわざとらしく驚いたように両手を上げた。


「おお、幽霊かと思いましたぞ」

「だとしたら、後宮は幽霊屋敷ですね」


 崔狗は短く笑うと、黙って池に向き直った。それを暗黙の誘いだと受け取った一嵐は斜め後ろに立つ。


「それにしても、お早いことで」

「君にも言えたことじゃないのかね?」

「いつもはもっと遅いですよ。こんなに早く始めても、受け取り手がいませんから」


 崔狗に向けるわけでもなく、一人苦笑をこぼす。しかし崔狗にも伝わったようで、彼はわずかに肩を揺らした。


「私も同じですよ。病人が起きだすのは昼を過ぎてからだ」

「では、なぜこんな時間に?」

「この景色が好きでしてね。霧の日は、物の形が崩れて見える。人も景色も、何か違うものに見える」


 何を言い出すのかといぶかしむ一嵐を、崔狗は首をひねって見上げる。


「まるで幽霊がいる気分にさせてくれるのですよ」


 幽霊なんて鼻から信じていないくせに、と一嵐は内心で突っ込みたいのを堪え、今度は自分から仕掛けた。


「一つお頼みしても?」

「なんでしょう」

「知り合いの下女が病にかかってしまったようでしてね。先月の流行り病と同じものだそうで、ぜひ薬をいただきたいのですが」

「……であれば、まずは医局にいらっしゃるよう伝えてください」

「節々が痛むらしく、医局まで行けないのですよ」


 崔狗は、今度は無言でこちらを見た。だが、一嵐の顔に意地の悪い笑みが浮かんでいるのを見て、珍しく苦虫を噛み潰したような顔をする。

 それを見て取った一嵐はさらに畳みかけた。


「先月は不運にも薬がなくなってしまったそうですね。よく分かりますよ。不測の事態が起こると、十分にあると思っていたものがあっという間になくなってしまう。……ですが、あれからひと月たちました。今なら幾分か余裕があるのでは?」


 崔狗はまっすぐ池を見つめた。黒い瞳が、濡れた水面のように反射して、奥底を読ませない。


 しばらくして、小さな吐息が崔狗の口から吐き出される。


「どこまで知っているのです?」

「薬不足は人災だ、ということくらいですよ」

「……まったく、あなたを登用したお方は、慧眼なのか節穴なのか気になるところですな。ずいぶんな曲者を拾ってきてしまったようだ」

「あなたに言われたくありませんが」


 そう皮肉を返しながら、一嵐は沈琛の憎たらしい顔を脳裏に浮かべた。


 彼が慧眼なのか節穴なのかは一嵐も図りかねるところだ。打ち首になりかけていた運び屋を拾って何がしたかったのか。ただ困ったときに使える手足が欲しかっただけなのではないかとさえ思えてくる。


 一嵐は頭を振って沈琛の顔を追い出し、崔狗の後頭部を見つめた。


「いかがですか」

「……他言無用です」

「承知しております」


 崔狗は用心深く周囲を見回し、それでも物足りないのか一嵐を手招いた。素直に寄った一嵐に顔を近づけ、掠れ声で囁く。


「先月、帝様が例の流行り病に倒れた。朝廷でもごく一部にしか知らされていないことです」


 一嵐は目を細めた。


(なるほど、これは口外できないわけだ)


 帝の厄は国の厄。それだけ帝という存在は国そのものを体現している。

 間違っても広く知れ渡るような状況は避けたかったというのもうなずける。


「それで、薬をすべて帝様に回した、と。おかげで後宮から薬が消えたわけですね」

「その通りですとも」


 崔狗は池の水面に小石でも落とすような声で呟いた。


 沈黙の中、一嵐は問いかける。


「なぜ柳雪は帝様が絡んでいることを知っていたのでしょう?」

「林翆から聞いたのかもしれませんな。寝ている林翆のそばでうっかり帝の名を口にしてしまったことがありましたゆえ、もしかすると聞かれていたかもしれません」

「なるほど。では、呉順はいったい何の関係が?」

「隔離部屋まで病人を搬送させていました。おそらく林翆も運んだかと」


 一嵐は湿った地面に残るおのれの足跡を見つめた。


(出そろったな)


 手紙を受け取った三人は間接的に林翆の死にかかわっていた。

 むろん、誰かが止めていれば、などという次元の話ではないので、林翆の怒りは逆恨みに等しい。


「……しかし、誰かを恨みたくなるのも分からなくはないな」


 一嵐がごちると、崔狗は無言で立ち上がって一嵐を見た。


「運び手よ。帝の命は、百の下女に勝る。それが国というものなのです」

「……へえ」


 崔狗の教訓めいた言い草に、一嵐は片眉を上げると、いつもなら懐にしまい込むような皮肉を表に出した。


「そんな帝様が、たった一人の下女に脅かされているなどと、甚だ可笑しな話ですね。もちろん、あなたにも言えることですが」

「何を……!」


 崔狗が言いかけるのを、一嵐は片手を上げて制した。


「では、失礼いたします。依頼人が待っていますので」

「……あなたにもいずれ理解できる日が来るでしょう。抗えないものは死と天命だけではないのです」


 一嵐はしばし黙ると、吐き捨てるというにはあまりに軽い調子でつぶやいた。


「くだらないな」


 それは皮肉でも挑発でもない、まぎれもない本音だった。


 崔狗は無言で一嵐を見つめた後、やはり言葉を発さずに背を向けた。表情を盗み見ようと水面を一瞥するが、霧が邪魔してぼんやりとした影しか見えない。

 そのまま待つことしばらく、崔狗は眉間を指で揉んだ。


「あなたを登用したお方は慧眼かと思っていたが、どうやら節穴だったようですな。帝様への忠誠心の欠片もない」

「あなたはあるとでも?」

「そのつもりでしたが……」


 崔狗は真意を悟らせない、いつもの胡散臭い笑みを浮かべた。


「はて、霧が濃くなってきましたな。……配達人殿も、そろそろ始業の時間では?」


 そう言うや否や、にわかに池の向こうが騒がしくなった。


「早朝からご苦労なことですな」

「おそらくうちの客です」

「どう対応するおつもりで?」

「それはもちろん、ご丁寧に……ああ、ご迷惑はおかけしませんので」


 一嵐は他人行儀に頭を下げると、岩の影から池の向こうの様子を伺った。

 屈強な男たちがこちらに向かって一直線に歩いてきている。どこからか一嵐の現在地が漏れたらしい。壁に耳あり障子に目あり、とは極東の国の言葉だったか。


(まったく、捕り物は二度とご免だと思ったのに)


 運び屋時代、しばしば捕吏に追い回されていたことを思い出す。まさか帝のお膝元で似たような目に遭おうとは、当時は夢にも思っていなかった。


「配達人! そこにいるのは分かっているぞ!」


 池をぐるりと回りながら、刑部の連中が声を張る。


「はい、いま行きます」


 一嵐は殊勝に答える一方、その足の筋肉を緊張させていた。


(さて、やるか)


 一嵐は岩の影から足を踏み出し、にこやかに微笑んだ。


「どちら様でしょう?」

「刑部だ。なぜ来たかは分かっているな」

「さあ?」


 次の瞬間、一嵐は身を翻してその場から逃げ出した。


「あ! 逃げたぞ!」


 後ろから驚きと怒号が追いかけてくる。


「待て!」


 一嵐の口元に皮肉めいた笑みが浮かぶ。いい加減、連中は『待て』と言われて待つ罪人などいないことを学ぶべきだろう。


 後宮仕えになってから本気で走るようなことはなくなったとはいえ、長年培ってきた逃げ足の速さはそう簡単には衰えない。

 おのれの足に感謝しながら、刑部との距離を一定に保ちつつ後宮中を駆け回る。


 向かうは緋月蓉の宮だ。

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