第1話:晩餐会は「ノイズ」が多すぎる

王宮晩餐会の会場は、エルザにとって地獄を煮詰め合わせたような場所だった。


「――エルザ、聞いているのか! 先ほどから私の話に上の空ではないか」


耳元で、不快な周波数の声が響く。婚約者のエドワード王子だ。彼の纏う高価な香料「黄金の睡蓮」の香りが、エルザの鼻腔を暴力的に突き刺す。


「……五。五、六、七」 「何を数えている!」 「エドワード様の瞬きの回数です。ここ一分間で二十四回。かなり動揺されているか、あるいは眼精疲労が蓄積されていますね。後者なら、ブルー・ベリーの抽出液を点眼されることをお勧めします」


エルザは無表情に、しかし淀みなく告げた。彼女の視界には、王子の怒った顔など入っていない。ただ、彼の背後のシャンデリアから漏れる「ジジ……」という魔力回路の不調音と、床に敷かれた絨毯の毛足の長さが不揃いであること、そして空気中に漂う埃の粒子が、ライトの光に反射して不規則に踊っている様だけが、鮮明な情報(データ)として網膜に焼き付いていた。


「これだ……。貴様のこういうところが、反吐が出るほど不気味なのだ!」


エドワードが声を荒らげる。周囲の貴族たちの視線が、針のようにエルザに刺さる。冷笑、哀れみ、嫌悪。それらの感情の機微を読み取る機能はエルザには備わっていないが、彼らが放つ「ひそひそ話」という名のノイズは、平均して六十デシベル前後で彼女の平穏を乱していた。


「貴様は『王太子妃には、花のような優雅さと、場を和ませる知性が必要だ』という私の言葉を、どう理解している?」


エドワードが周囲に見せつけるように、皮肉を込めて問いかける。これは「お前にはそのどちらもない」という糾弾だ。しかし、エルザの脳はそれを「文字通りの質問」として処理する。


「はい。植物学的な『花』の定義によれば、それは生殖器官であり、昆虫を誘引するための鮮やかな形態を指します。私が派手なドレスを着て立ち尽くせば、視覚的誘引効果は果たせます。また『場を和ませる知性』に関しては、現在この会場の湿度は六十五%と高く、不快指数が上昇しています。私が結界魔法で除湿を行えば、物理的に皆様を和ませることが可能です。今すぐ実行しましょうか?」


しん、と会場が凍り付いた。 エドワードの顔が、熟しすぎたトマトのような赤紫に変色していく。


「ふざけるな……! 貴様、私を馬鹿にしているのか!」 「いいえ、事実を提示しました。なぜ怒るのですか? 数値的に正しい提案です」


「黙れ! 貴様のような『壊れた人形』はもう限界だ!」


エドワードが右手を振り上げた。エルザは瞬時に彼の筋肉の収縮率を計算し、平手打ちが届く三センチ手前で首を傾けて回避する。空を切った衝撃音が、静まり返ったホールに虚しく響いた。


「エルザ・ヴァン・ド・ラ・モット! 貴様との婚約を、今この場をもって破棄する! 社交の場を汚し、王家の威信を傷つける無能な欠陥品め。二度とその顔を見せるな!」


その宣言と同時に、ホールの隅に控えていたエルザの父、モット侯爵が歩み出た。彼の瞳には娘への情など欠片もなく、ただ「損失を切り捨てる商売人」の冷徹さがあった。


「……申し訳ございません、殿下。我が家からも、この出来損ないを勘当いたします。エルザ、今すぐそのドレスを脱いで出ていけ。お前のような『不注意で、空気が読めず、何をしでかすか分からない爆弾』を抱えておけるほど、我が家は寛容ではない」


父の言葉。それはエルザにとって、長年自分を縛り付けていた「正常であれ」という呪いの鎖が千切れる音だった。


(……あ。消えた)


脳内を占拠していた「他人に合わせなければならない」という重苦しい演算プロセスが、エラーを吐いて強制終了していく。 代わりに、鮮やかな快楽が全身を駆け抜けた。


「……本当ですね?」


エルザが声を出す。それは先ほどまでの無機質なトーンとは違い、どこか艶やかな、弾むような響きを帯びていた。


「婚約破棄、および勘当。つまり私は、明日から王宮の晩餐会に出る必要もなく、父様の言いつけで『興味のない帳簿付け』をする必要もなく、この不快な香水の匂いからも、意味の不明な社交辞令からも、すべて解放されるということですね?」


「何を……絶望のあまり狂ったか?」


エドワードが眉をひそめる。だが、エルザの瞳はかつてないほど輝いていた。


「狂っていません。むしろ、これほど脳が効率的に回転しているのは初めてです。計算しました。今後、私は他人の顔色を窺うためのリソースをすべて、魔石の研究に転換できます。一日二十四時間のうち、睡眠と食事を最小限に抑えれば、十八時間以上は没頭できる。……素晴らしい。なんて素晴らしい設計(デザイン)でしょう!」


エルザはドレスの裾を乱暴に掴み、その場で大きく一回転した。


「エドワード様、お父様。心から感謝します。あなた方は私の人生において、最大の『無駄』を削ぎ落としてくださいました。おかげで私の最適解が見つかりました」


「こ、この……恩知らずがッ! 衛兵! この女を叩き出せ!」


「必要ありません。出口の方向は分かっています」


エルザは即座に歩き出した。 ADHD特有の**「衝動性」**が、彼女の足を加速させる。今この瞬間、彼女の頭の中には「城の外にある、あの打ち捨てられた古い魔導工房」の図面が鮮明に浮かんでいた。あそこには誰も見向きもしない、不純物だらけの魔石が山積みにされているはずだ。


「エルザ! 待ちなさい!」


背後で誰かが叫んでいるが、もう耳には入らない。 彼女にとって、過去はすでに「不要なログ」だった。


重厚な扉を自らの手で押し開ける。 夜の冷気が、熱った肌を心地よく撫でた。 星空は高く、音はない。情報のノイズが消え、世界がようやく「正しく」見え始めた。


(あそこに、あの紫色の閃光が見える石がある。誰もが『不安定なゴミ』だと捨てた、あの石。……あれを私のハイパーフォーカスで解析すれば、世界中の動力を書き換えられるはず)


エルザは暗闇に向かって、こらえきれずに笑みをこぼした。 絶望に震えるべき令嬢は、そこにいない。 そこにいるのは、解き放たれた「怪物」だ。


「さあ、始めましょう。私だけの、完璧な世界の構築を」


彼女は夜の闇へと、弾けるような足取りで駆け出していった。 その背中は、追放された者特有の悲哀など微塵も感じさせず、ただ純粋な「歓喜」に満ち溢れていた。


【第1話・完】


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