第5章:魔王討伐、失敗
巨大な波が引いていくように、人類軍は崩れ去った。
作戦名『審判』による主力部隊の包囲殲滅は、決定的な打撃だった。
指揮系統を失い、食料も尽き、恐怖に支配された聖王国軍は、もはや軍隊としての体を成していなかった。
我先にと逃げ出す兵士たち。
重い鎧を脱ぎ捨て、聖典を泥にまみれさせながら、彼らは来た道を無様に敗走していく。
「追撃しますか? 今なら、国境までの全部隊を背後から狩れますが」 ガルドゥ将軍からの通信が入る。
彼の声には、まだ戦いの熱が残っていた。
だが、魔王ゼルヴァスは首を横に振った。
「好機ではある。だが、これ以上の殺生は『防衛』の域を超える。……放っておけ」
「はッ。……命拾いしたな、人間どもめ」
魔王の慈悲により、追撃は行われなかった。
数日後、最後の人類兵が国境を越えて去った。
こうして、二ヶ月に及ぶ「人類侵攻戦争」は、魔王軍の完全勝利という形で幕を下ろした。
はずだった。
司令部の空気は、勝利の高揚感とは無縁だった。
戦後処理に追われる日々の中、私の手元に「ある報告書」が届いたからだ。
それは、人類圏で発行されている新聞と、聖王国が公式に発表した歴史書の草稿(コピー)だった。
ハーピーの諜報員が、命懸けで持ち帰ったものだ。
「……ルクシオン。それは何だ」
私の様子がおかしいことに気づいたのか、魔王が声をかけてきた。
「人類側の、終戦に際しての公式声明です」
「読んでみろ」
私は、乾いた唇を舐めてから、そのインクの文字を読み上げた。
そこに書かれていたのは、私たちが知る戦争とは、似ても似つかない物語だった。
「『――聖歴〇〇年。魔界への遠征軍は、多大なる成果を挙げて帰還した』」
冒頭から、嘘だった。
彼らは主力部隊を失い、勇者を奪われ、何一つ得ることなく敗走したはずだ。
だが、記事は続く。
「『我ら人類軍は、魔王軍の卑劣な罠と猛攻に晒されたが、勇者部隊の獅子奮迅の活躍により……(中略)……特に勇者は、撤退する味方を守るために単身で殿(しんがり)を務め、魔王軍の大軍を相手に数日間戦い抜いた。彼の尊い犠牲により、人類軍は被害を最小限に抑え、整然と撤退を完了した』」
司令部が、しんと静まり返る。
勇者は殿など務めていない。
真っ先に突っ込んできて、捕まっただけだ。
だが、人類側の物語では、彼は「味方を守って行方不明になった英雄」に祭り上げられていた。
捕虜になったという事実は、彼らの名誉のために「行方不明(事実上の戦死)」へと書き換えられたのだ。
そして、結びの一文が、我々の心を最も深く抉った。
「『……魔王討伐こそならなかったが、我々は魔族に痛撃を与え、その野望を挫くことに成功した。これは実質的な勝利である。聖なる光は、依然として我らと共にある』」
読み終えた羊皮紙を、私は机の上に置いた。
怒りはなかった。
ただ、底知れない徒労感だけが、鉛のように体にのしかかっていた。
「……なるほどな」
魔王ゼルヴァスが、自嘲気味に笑った。
「我々は勝った。領土を守り、民を守り、敵を追い返した。……だが、世界にとっては『我々が負けた(あるいは痛み分けに終わった)』ことになるわけか」
「はい」
私は頷いた。
「彼らは、負けを認めません。認めてしまえば、この侵略戦争の正当性が崩れるからです。だから彼らは、どんなに無様に負けても、歴史書の上では『勝った』と記す。……ペンは、剣よりも強し、です」
我々は、物理的な戦争には勝利した。
だが、「正義」を巡る情報戦においては、完敗したのだ。
これから先、人類の歴史教科書には、この戦争は「勇敢なる聖戦」として記録され、子供たちに語り継がれていくだろう。
そして我々は、永遠に「理由もなく人類を襲い、勇者によって撃退された悪の軍団」として定義され続ける。
ガルドゥ将軍の奮戦も、死んでいった兵士たちの覚悟も、魔王の苦渋の決断も。
すべては、彼らの都合のいい数行のインクによって、塗り潰された。
司令部にある巨大な戦術地図。
そこにはもう、敵を示す赤色は存在しない。
だが、私たちの心を覆う暗雲は、晴れることがなかった。
静かな敗北感が、部屋を満たしていた。
我々は生き残った。
けれど、私たちの「真実」は、この地下深くの司令部を除いて、世界のどこにも残らないのだ。
魔王討伐、失敗。
人類側はそう記録した。
だが、本当に失敗したのは――歴史に抗おうとした、我々の方だったのかもしれない。
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