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シーン⑨
颯太は深夜のネットカフェのバイト中に一人で考え込んでいた。
彼の恋した人は前日の記憶を35分しか引き継げない。
その事実と向き合っていた。
どんな気分なんだろうか。
朝起きたら昨日あったことが思い出せない。
友達と話していた内容も忘れて話についていけない。
美味しいごはんも好きなテレビの内容も
全部、全部思い出せない。
苦しいだろうな。
「…っ」
悔しくて、情けなくて、心が締め付けられる。
スマホのバイブが振動する。
バイトの後輩からだった。
「ドリンクの発注したはずなんですけど、出来てるか確認して貰えますか?」
ドリンクの発注は出来ていたのでその旨を返信する。
彼は以前、発注を忘れて怒られていたのを思い出した。
「覚えられないんじゃバイトも無理だろうな。」
気が付くとすぐに澪のことに繋げてしまっていた。
その日のバイトは少し早く終わった。
学校まで時間があるため夕方のバイト先である喫茶店に足を運んだ。
颯太は知っていた。
マスターが朝からコーヒーを淹れていることを。
店も閉めて、客も入らないのにいつもこの人は朝にコーヒーを淹れる。
「おかえり。」
マスターがそう言うと颯太はカウンターの席に座った。
「何か思い詰めているね。」
「まあ。」
驚きはしなかった。
このマスターにはいつも心を見透かされている。
颯太が大学受験の時に悩んでいた時もそうだった。
医学部志望だったがそこまでの成績はなかった。
両親や担任は医学部でなくてもと言ったが、大輔はITの専門学校で医療に関わる専攻もあると教えてくれた。
その時もマスターのコーヒーを飲んだ。
「ミルクを入れるとカフェラテ、ココアを入れるとカフェモカ。
名前は変わるけどコーヒーはコーヒーなんだ。
何を悩んでいるのか分からないけど
自分のやりたいことを突き詰めたらいいんじゃないな。」
マスターのこの言葉があって今の颯太があると言っても過言ではなかった。
今日はなかなかコーヒーが出てこない。
マスターを見ると少しお湯を注いでは蒸らし、少し注いでは蒸らしを繰り返していた。
家に帰ると、俺は一人、澪のことについて考えた。考えれば考えるほど、彼女がフルーツタルトを美味しそうに食べる姿が、脳裏に浮かんで離れない。
その夜、ネットカフェのバイトが終わると、マスターがいつものように、俺のためにコーヒーを入れてくれた。
「どうした、元気ないじゃないか。彼女に振られたか?」
マスターは、俺の様子を見て、少しだけ微笑みながら言った。俺は、マスターに澪のことを全て話した。マスターは、黙って俺の話を聞き、そして、俺にコーヒーを差し出した。
「コーヒーはな、時間をかければかけるほど、美味しくなるんだ。…お前は、まだ始まったばかりだろ?」
マスターの言葉は、俺の心に、温かい光を灯してくれた。
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