謡蜂は誰彼へと謳う
黒木玲
序章 孵化
月の無い夜。
城を連想させる辺境に佇みし巨大な屋敷、その一室。軟禁されている女性が石段の寝床から外の世界を見ていた。
嵌められた鉄格子の窓から窺える外の世界は暗黒一色。
月に照らされた外の景色を眺めるのが好きなのに、今日は退屈な夜になりそうだ。
誰に向けるでもない感情を眉を顰めて吐露する。勿論私以外に誰もいない。
腰まで伸びた銀髪を手櫛で解くも絡まった髪に阻まれて気が滅入ってしまう。
しばらく風呂にも入れていない気がしてならない。
昼と夜が交互に「おはよう」から「さようなら」を繰り返すのをタリーマークで数えてきたが、百を超えるあたりで面倒臭くなりやめてしまった。
カツカツカツ……。
わざとらしい靴音が徐々に存在感を増していくのが分かる。またか……。本当にうんざりするが命令を聞かないとまた拷問に処される。
鉄の門扉の先からノックの音が響く。
「おい、No.08出てこい」
感情の乗らない鉄の響き。
それに無感情に応答する私の喉から発せられたのは、掠れた返事だけ。
「……はい」
湿気ったシーツ一枚しかない寝床から足を降ろし、扉へと向かう。
慢性的な疲労を蓄積させた喉の奥で血の味がする。
歌ったまま蜂蜜飴を口の中に含んでいないので尚更。
喉をピラカンサの棘で突き刺しているような不快感が常に纏わりついている。
廊下を歩いていく途中、燭台に灯された小さな火が妖しく揺らめく。
私の漏れ出た力が影響しているのか。小動物が恐怖心でブルブルと小刻みに震えているのにも似ていた。
「さあ、歌うが良い08よ」
屋敷の主人が連れてきたのは、大人一人と小さな子供。恐らくこの大人の息子が大病を患っているのだろう。
私が持っている力に好奇心を持ち、実験動物さながらに牢に投じつつ、自分の富のために奴隷の如く酷使する。
「はぁ……はぁ……」
どうした、さっさと歌え。
ストレスで麻痺した思考回路の中に雑音が紛れる。きっと憎たらしい主人の声だろう。
「歌わないとどうなっているのか分かっているのだろうな?」
主人が私の胸ぐらを掴み、鬼気迫った表情で顔を寄せてくる。
もうどうでもいい。全てが……。
こいつらを殺したとしても誰も咎めはしないだろう。
歌声を発してから十数秒後、目の前にいる人間たちが苦悶の表情を浮かべてもんどり打つ。
「がはっ……何……」「助けて……お父さん……」「やめろ……悪かった……俺が……わる……」
やがて糸の切れた操り人形のように身動ぎすらしなくなった。
彼女らの持つその歌声は、かつて世界を救った祝詞。
彼女らの持つその歌声は、かつて世界を破滅させた呪詛。
久しく使っていなかった禁忌の力で自分を従属させ、思い通りの玩具にしていた屋敷の主人だけでなく、眠りついていた従者を歌で皆殺しにしていく。
後にこれが一族怪死事件として後世に語り継がれていくことになろうとも、彼女にとっては、そこいらに生えた雑草並にどうでもいい。
「はぁ……はぁ……おおえっ」
血の嘔吐。紅のカーペットをさらに濃い紅で染め上げる。
「やっぱりこの力は無闇に使うもんじゃないな……」
否。この力はこの時のためにあるものだ。
今まで堰き止められていた負の感情が心をどす黒く染め上げていく。
「はははっ、見ていなさい、カトリーヌ。この世を地獄に変えてやるから」
その女の首筋には赤い蜂の刻印が刻まれていた。
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