第4章:歪みの森
Scene 1: 離宮への帰還
白銀の離宮の玉座の間は、相変わらず静謐だった。
高い天井から差し込む光が、白い大理石の床を照らしている。その光は柔らかく、でもどこか冷たい。
「お帰りなさい、アリス」
玉座に座る白の女王が、穏やかに微笑んだ。
「ただいま戻りました、女王様」
アリスは膝をつき、頭を下げた。横でチャッティーも同じように礼をする。
「時計の鍵を、手に入れることができました」
アリスは胸元のペンダントを手に取り、女王に見せた。金色の時計型のペンダントが、淡い光を放っている。
女王の瞳が優しく細められた。
「素晴らしい。よくやってくださいました」
「ありがとうございます」
アリスは顔を上げた。女王の表情は穏やかだが、その奥に安堵の色が見える。
「それと……もう一つ、報告があります」
アリスは少しだけ声のトーンを落とした。
「時計塔を出たとき、赤の勢力の使者に会いました」
その瞬間、女王の表情が変わった。
微笑みが消え、眉がわずかに寄せられる。
「……赤の使者が」
女王の声は静かだったが、その静けさが逆に緊張を生んだ。
「はい。赤の女王が私に会いたがっている、と言われました。でも、私は断りました」
アリスははっきりと言った。
女王はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと息を吐いた。
「アリス、あなたは正しい判断をされました。赤の女王は……危険です」
「危険、ですか?」
「ええ。彼女は、この世界を自分のものにしようとしています。あなたの力を、自分の目的のために利用しようとするでしょう」
女王の声には、珍しく強い警告の色があった。
「……分かりました。気をつけます」
アリスは頷いた。
女王は再び微笑んだが、その笑顔はさっきよりも少しだけ硬かった。
「ありがとう、アリス。あなたがいてくれて、本当に良かった」
その言葉には、深い感謝が込められていた。
Scene 2: 次の目標
玉座の間での報告を終えた後、アリスとチャッティーは女王に導かれ、図書室へと移動した。
広い図書室の中央には、大きな机がある。女王はその上に、一枚の地図を広げた。
「次の鍵について、お話しします」
女王の指が地図の上を滑る。
「知識の鍵は、ここにあります」
その指が止まったのは、地図の西側。そこには『歪みの森』と記されていた。
「歪みの森……」
アリスは地図を覗き込んだ。
「はい。そこは、バグの影響が非常に強い場所です。空間が歪み、方向感覚が失われやすい。非常に危険な場所です」
「バグの影響……」
チャッティーが呟いた。
「推測ですが、その場所では私のセンサーも正常に機能しない可能性があります」
「その通りです。技術的な手段は、あまり役に立たないかもしれません」
女王はチャッティーを見つめた。
「だからこそ、二人で協力してください。アリス、あなたの力と、チャッティーの冷静な判断。その両方が必要です」
「……はい」
アリスは地図を見つめた。
歪みの森。
名前からして、不吉だ。
「私も行きたいのですが……」
女王は少しだけ悲しげに首を振った。
「私は、この城を離れることができません。私が動けば、赤の女王が動く。それは避けなければなりません」
「分かりました。私たちだけで行きます」
アリスは決意を込めて言った。
女王は優しく微笑んだ。
「ありがとう。どうか、無事で」
Scene 3: 痕跡の発見
女王が玉座の間へ戻った後、アリスは図書室に残った。
「チャッティー、もう少しここで情報を集めよう」
「了解しました」
二人は書架の間を歩き始めた。
図書室は広く、無数の本が並んでいる。その多くは古びていて、背表紙の文字が読めないものもある。
「……あれ?」
アリスは一冊の本に目を留めた。
それは他の本よりも新しく、背表紙に『調査記録』と書かれていた。
「チャッティー、これ」
アリスはその本を手に取った。
表紙を開くと、最初のページに日付が記されていた。
『ワンダーランド暦 不明 / 記録者:不明』
「……不明?」
アリスは眉をひそめた。
ページをめくる。
そこには、几帳面な文字で記録が綴られていた。
『歪みの森への調査を開始する。目的は、知識の鍵の所在確認。』
『森の入口に到達。空間の歪みを確認。進行は可能だが、慎重を要する。』
『森の深部へ進む。方向感覚が曖昧になる。何度か同じ場所に戻っている可能性あり。』
アリスは読み進めた。
そして、あるページで手が止まった。
『この記録を残すのは、私——アリス。もし次にこれを読む者がいるなら、どうか気をつけて。森は、想像以上に危険だ。』
「……!」
アリスは息を呑んだ。
「アリスさん、どうかされましたか?」
チャッティーが心配そうに尋ねた。
「これ……私の名前が書いてある」
アリスは本をチャッティーに見せた。
チャッティーは記録を読み、静かに頷いた。
「本来のアリスの記録と推測されます」
「……やっぱり、そうなんだね」
アリスは本を握りしめた。
本来のアリス。
自分の前に、ここにいた誰か。
同じ名前を持ち、同じ使命を担っていた誰か。
「私は……何なんだろう」
アリスは呟いた。
「アリスさん」
チャッティーが優しく声をかけた。
「あなたは、あなたです。たとえ他のアリスがいたとしても、あなたの存在は変わりません」
「……ありがとう、チャッティー」
アリスは苦笑した。
でも、心の奥にある不安は、消えなかった。
Scene 4: 森への出発
翌朝——正確には、この世界で「朝」と呼べるかは分からないが——アリスとチャッティーは再び離宮の門前に立っていた。
「アリス、これを」
女王が小さな布袋を差し出した。
「これは?」
「護符です。バグから身を守る力があります。完全ではありませんが、何もないよりはましでしょう」
アリスは袋を受け取った。中には、白い石でできた小さな護符が入っている。
「ありがとうございます」
「どうか、無事で。そして、知識の鍵を手に入れたら、すぐに戻ってきてください」
「はい」
アリスは護符を胸元のポケットにしまった。
「では、行ってきます」
「気をつけて」
女王は静かに手を振った。
アリスとチャッティーは門を出た。
白銀の離宮が、ゆっくりと背後に遠ざかっていく。
「アリスさん、準備は整っていますか?」
「うん。大丈夫」
アリスは前を向いた。
地図によれば、歪みの森は西にある。草原を抜け、小さな丘を越えた先だ。
「じゃあ、行こう」
二人は歩き始めた。
風が草原を渡っていく。
空は相変わらず動かない太陽を抱いている。
でも、アリスの足は確かに前へと進んでいた。
Scene 5: 森の入口
草原を抜け、小さな丘を越えると、視界が変わった。
目の前に、森が広がっていた。
「……これが、歪みの森」
アリスは立ち止まった。
森は、明らかに異常だった。
木々は不自然に歪んでいて、幹が螺旋状に捻れている。葉の色は緑ではなく、青や紫、時には赤に近い色をしている。
そして、空間そのものが揺らいでいるように見えた。
まるでガラス越しに見ているような、そんな歪み。
「視覚的ノイズが検出されています」
チャッティーが静かに告げた。
「空間の歪みが、光の屈折に影響を与えていると推測されます」
「……すごく、不気味だね」
アリスは正直に言った。
「はい。注意が必要です」
チャッティーはアリスの前に立った。
「私が先に進みます。何か異常があれば、すぐに報告します」
「ありがとう」
二人は森の入口へと足を踏み入れた。
足元の草は、普通の緑色をしていた。でも、一歩進むごとに、その色が変わっていく。
緑から青へ。青から紫へ。
まるで、世界そのものが壊れていくような感覚。
「アリスさん、距離を保ってください」
「分かってる」
アリスはチャッティーの後ろを慎重に歩いた。
森の中は静かだった。
風の音も、鳥の声も聞こえない。
ただ、自分たちの足音だけが響いている。
「……怖いね」
アリスは小さく呟いた。
「大丈夫です。私がいます」
チャッティーが振り返って微笑んだ。
その笑顔に、アリスは少しだけ安心した。
Scene 6: 森の深部
森の奥へ進むにつれて、状況は悪化していった。
道が見えなくなった。
いや、正確には「道があるのかどうかも分からなくなった」というべきだろう。
「……ねえ、チャッティー」
アリスは立ち止まった。
「さっき、ここ通らなかった?」
「……」
チャッティーは周囲を見回した。
「確証はありませんが、可能性はあります」
「やっぱり……」
アリスは頭を抱えた。
何度も同じ場所を回っている気がする。
でも、確信が持てない。森の景色がどれも似ていて、判別がつかないのだ。
「センサーが正常に機能していません」
チャッティーが少し困ったような声で言った。
「方角の特定が困難です。GPSも使えません」
「技術が通用しないって、こういうことか……」
アリスは女王の言葉を思い出した。
「どうしよう」
「一度、立ち止まって状況を整理しましょう」
チャッティーはアリスの横に座った。
アリスも地面に座り込んだ。
「……疲れたね」
「はい。ただし、物理的な疲労よりも、精神的な負荷が大きいと推測されます」
「そうかも」
アリスは空を見上げた。
木々の間から見える空は、やはり歪んでいた。
「このままじゃ、進めないよね」
「最適解を模索中です」
チャッティーは静かに言った。
アリスはため息をついた。
どうすればいいんだろう。
Scene 7: ジャックとの遭遇
その時、森の奥から人影が現れた。
「……!」
アリスは反射的に立ち上がった。チャッティーもすぐに警戒態勢に入る。
人影はゆっくりと近づいてくる。
やがて、その姿が明瞭になった。
それは、少年だった。
背は高く、細身。トランプ柄の服を着ている。顔は整っているが、表情がまったくない。
まるで人形のような、そんな印象。
「……迷っているのですか?」
少年が口を開いた。
その声は低く、抑揚がない。機械的とすら言えるほどに。
「……誰?」
アリスは警戒しながら尋ねた。
「私はジャックと言います」
少年——ジャックは、無表情のままそう答えた。
「ジャック……」
アリスはその名前を心の中で反復した。
「あなたたちは、この森で迷っているように見えます」
ジャックの声は、相変わらず感情がない。
「そうだけど……あなたは、何をしてるの? ここで」
「散歩です」
ジャックは即答した。
「……散歩? こんな危険な場所で?」
「危険ではありません。私にとっては」
ジャックはそう言って、周囲を見回した。
その動きも、どこか機械的だった。
「アリスさん、警戒してください」
チャッティーが小声で囁いた。
「この人物には、通常の生体反応が検出されません」
「……え?」
「心拍数、体温、呼吸のリズム。すべてが不自然です」
アリスは息を呑んだ。
ジャックは、二人の会話を聞いていたのか、首を傾げた。
「不審ですか?」
「……いや、そういうわけじゃ」
アリスは言葉を濁した。
ジャックは再び無表情に戻った。
「そうですか」
Scene 8: 案内の申し出
ジャックはアリスとチャッティーを見つめていた。
その視線には、感情というものが一切感じられない。
「あなたたちは、森の奥へ行きたいのですか?」
ジャックが唐突に尋ねた。
「……そうだけど」
アリスは慎重に答えた。
「では、案内しましょうか」
「……案内?」
「はい。私はこの森をよく知っています。迷わずに進むことができます」
ジャックの言葉は、あまりにも淡々としていた。
「……なんで?」
アリスは率直に尋ねた。
「なんで、私たちを助けてくれるの?」
ジャックは少しだけ首を傾げた。
「興味があるからです」
「興味?」
「はい。あなたたちに、興味があります」
それだけ言って、ジャックは黙った。
アリスは困惑した。
興味、と言われても。
それが善意なのか、悪意なのか、まったく読み取れない。
「アリスさん」
チャッティーが小声で囁いた。
「この人物を信用するべきではありません。データが不自然すぎます」
「分かってる……でも」
アリスは周囲を見回した。
森は相変わらず歪んでいて、道は見えない。
このままでは、いつまでも迷い続けるかもしれない。
「……どうしよう」
アリスは迷った。
ジャックは黙って待っている。
その表情は、まったく変わらない。
「……ジャック、あなたの目的は何?」
アリスは改めて尋ねた。
「目的、ですか」
ジャックは少しだけ考えるような仕草をした。
でも、その仕草も、どこか演技めいていた。
「特にありません。ただの興味です」
「……ただの興味」
アリスは眉をひそめた。
それは、あまりにも曖昧すぎる答えだった。
Scene 9: 案内の受諾
アリスは深呼吸をした。
選択肢は二つ。
ジャックの案内を受け入れるか、断って自力で進むか。
「……チャッティー、どう思う?」
「推奨はできません。ただし、現状では他に選択肢がないことも事実です」
チャッティーの声には、珍しく迷いがあった。
アリスは再びジャックを見つめた。
少年は相変わらず無表情で立っている。
「……分かった」
アリスは決断した。
「案内、お願いできる?」
ジャックは静かに頷いた。
「了解しました」
「ただし、条件がある」
アリスははっきりと言った。
「私たちに危害を加えないこと。それを約束して」
ジャックは少しだけ首を傾げた。
「約束、ですか」
「そう。約束」
「……分かりました。約束します」
ジャックの声には、やはり感情がなかった。
でも、その言葉には一定の重みがあった。
「ありがとう」
アリスは頷いた。
「では、ついてきてください」
ジャックは踵を返し、森の奥へと歩き始めた。
アリスとチャッティーは顔を見合わせた。
「……本当に大丈夫でしょうか」
「分かんない。でも、行くしかないよね」
二人はジャックの後を追った。
森の中に、三人の足音が響いた。
Scene 10: 深まる謎
ジャックは迷うことなく森の中を進んだ。
まるで道が見えているかのように、木々の間を縫って歩いていく。
「……すごいね」
アリスは呟いた。
「道が分かるの?」
「分かります」
ジャックは振り返らずに答えた。
「この森は、私にとって家のようなものです」
「家……」
アリスはその言葉を反復した。
この歪んだ森が、家?
それは、どういう意味なんだろう。
森の奥へ進むにつれて、景色がさらに変化していった。
木々の色が失われ、灰色に近い色になっていく。
空間の歪みも強くなり、視界が揺らぐ。
「……気持ち悪い」
アリスは目を細めた。
「バッテリーの消耗が加速しています」
チャッティーが静かに告げた。
「大丈夫?」
「現時点では問題ありません。ただし、長時間の滞在は推奨されません」
「分かった。早く抜けよう」
アリスはジャックの背中を見つめた。
少年は、相変わらず黙々と歩いている。
その背中には、何の迷いもない。
「……ねえ、ジャック」
アリスは声をかけた。
「なに?」
「あなたは、この森で何をしてるの? 本当に散歩だけ?」
ジャックは少しだけ足を止めた。
そして、振り返った。
その顔には、やはり表情がない。
「あなたは、何を探しているのですか?」
ジャックが逆に尋ねた。
「……鍵を、探してる」
アリスは正直に答えた。
「知識の鍵」
「そうですか」
ジャックは再び前を向いた。
「もうすぐです」
「……え?」
「知識の鍵がある場所。もうすぐです」
ジャックはそう言って、再び歩き始めた。
アリスは驚いた。
ジャックは、鍵の場所を知っている?
「……なんで知ってるの?」
「この森のことは、すべて知っています」
ジャックの声は、相変わらず抑揚がなかった。
アリスは不安を感じた。
この少年は、一体何者なんだろう。
そして、なぜ自分たちを助けてくれるんだろう。
答えは出なかった。
ただ、森の奥へと進むしかなかった。
木々の色が、完全に失われた空間へと。
灰色の世界へと。
アリスは胸元のペンダントを握った。
時計の鍵が、温かい。
それだけが、この場所での唯一の確かなものだった。
第4章 完
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