双剣のエルナは二度と仲間を持たない LightNovelRemix

アズマ マコト

『「二度と仲間は作らない」と誓ったソロ剣士ですが、初心者が死にそうなのでこっそり助けることにしました』

夕陽が城壁を赤く染め、フォルティアの街に長い影を落としていた。


 冒険者ギルドのホールは、蜂蜜酒のようなアンバー色の光で満たされ、酔い潰れた男たちのいびきと、勝利を祝う鬨の声が混じり合っている。




「見たか、俺の戦斧がオーガの顎を砕いた一撃を!」


「だから言ったろ、沼のリザードマンに氷魔法は悪手だって。脳筋が」


「祝杯だ! エン婆、一番高いエールを! 勘定はこいつの素材で払う!」




 飛び交う武勇伝、敗者の愚痴、明日への希望。汗とエール、そして拭いきれない死線の匂いが混じり合った独特の熱気が、この場所の日常だった。




 その喧騒から切り離されたように、絶対零度の空気を纏う一人の女性がいた。


 ギルドの最奥、暖炉の光も届かない隅の席。『アッパーB』ランク冒険者、『絶氷』のエルナ。彼女はただ、そこにいた。




 周囲の騒がしさは、まるで分厚いガラスの向こうの出来事のようだ。琥珀色のエールが満たされたジョッキを、彼女は静かに口元へ運ぶ。その灰色の瞳は、窓の外の空の、名もなき一点に縫い付けられていた。




(……いつもの喧騒。平和、と言えなくもない)




 その瞳は、ギルドの熱狂の何一つ映してはいない。数え切れぬ戦場を生き抜いてきた者の、凍てついた湖面のような静けさ。その深淵を誰にも覗かせはしない。




 ふと、カウンターの奥から影がひとつ動いた。この酒場を半世紀近く切り盛りしてきた女主人、エンだ。年季の入ったエプロンをつけた彼女は、騒がしいテーブルの間を滑るように抜け、エルナのテーブルで足を止める。




 エンは何も言わず、空になったジョッキを手に取り、代わりに泡立つ新しい一杯を音もなく置いた。


 エルナは視線をテーブルに落とし、エンの顔は見ずに、小さく一度だけ頷く。言葉はない。だが、十年を超える歳月が織り上げた信頼が、その沈黙に満ちていた。




 カウンターへ戻りながら、エンは独り言のように呟いた。


「……そういや、森の東がどうにもきな臭くてね。聴き慣れない羽音に、異質な森の匂い……。古株ほど、何かに怯えてる」




 その言葉の断片が、エルナの意識に小さな波紋を刻んだ。


(異質な森の匂い……)


 脳内で、何かが微かに警鐘を鳴らす。


【スキル:危険察知】が、わずかに反応している。だが、まだ脅威として認識するには情報が足りない。




 エルナは表情を変えぬまま、新しいエールを一口、喉に流し込んだ。




 ---




 午後のギルドホールは、夜の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 エルナが奥の席でエールを口にしていると、その均衡は轟音と共に破られた。




 ギルドの扉が弾け飛ぶように開け放たれる。


「帰還した! Dランク依頼『ゴブリンの巣の偵察』、被害ゼロで完遂だ!」




 リーダー格の少年――カイルが、傷ひとつない胸当てを誇らしげに叩いて叫ぶ。彼の後ろには、同じく若い弓使いの少女と魔術師の少年が続く。


「報告通り、巣はもぬけの殻だったぜ! ラッキーだったな!」




(……運、か)




 エルナは内心でため息をついた。この世界で、理由のない幸運ほど危険なものはない。




 若者たちの屈託のない笑い声がホールに響く。エルナは誰に言うでもなく席を立ち、音もなくギルドの二階へと続く階段へ向かった。背中に突き刺さる熱狂を振り払いながら。




 ---




 そこは死んだ情報が眠る墓所――ギルド資料室だった。


 窓から射す月光が、巨大な書架の影を床へと伸ばしている。




(まず、現状分析から)




 エルナは一直線に奥へと進む。目指すは「森の東側」に関する直近の依頼報告書ログ。


 彼女は複数の報告書を卓上に並べ、その行間に潜む“声なき声”を拾い集めていく。


【スキル:分析】が起動し、無数の文字情報が意味のあるデータへと再構築されていく。




 やがて、彼女の指がある一点で氷のように止まった。




「依頼成功率……」




 ここ三ヶ月の「森の東側」担当区域の依頼成功率は、それ以前と比較して、41.2%も低下している。これは誤差ではない。明確な『異常』だ。




 ▶ **システムアラート:指定エリアにて脅威レベルの急激な上昇を検知**




 さらにページを繰る。ゴブリン、コボルトといった小型モンスターの討伐報告が、ここ数ヶ月で完全に途絶えている。まるで、より高次の捕食者が君臨し、餌場を根こそぎ“掃除”してしまったかのように。




「ありえない……」




 カイルたちは言っていた。「ゴブリンの巣はもぬけの殻だった」と。


 それは幸運などではない。巨大な獣が晩餐を終えた、静かな食卓に足を踏み入れただけだ。




 エルナは埃を被った古文書の棚へと手を伸ばす。数年前の、黄ばんだ羊皮紙の束。そして、ついにその一行を探り当てた。




『同エリアにて、獅子らしき大型獣の足跡と、尾を引き摺ったような痕跡を発見』




 獅子。引き摺られた尾。


 二つのキーワードが、脳内で冷たい答えを弾き出した。




【スキル:魔物知識】がデータベースと照合。


 ▶ **検索結果:マンティコア**


 ▶ **脅威ランク:A+**




(……最悪だ)




 Dランクパーティが、A+ランクモンスターの縄張りに足を踏み入れた。生存率は、限りなくゼロに近い。


 カイルたちの、誇らしげな笑顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。あの子たちは、自分たちが巨大な蜘蛛の巣の上で踊っていることに、気づいてすらいない。




 焦燥が、胸を焼く。




 ---




 資料室の重い扉を背に、エルナは階下から漏れ聞こえる喧騒に耳を澄ませた。


「やったな、カイル! あれは大手柄だ!」


「当たり前だろ! 俺たちにかかれば!」




 若く、自信に満ちた声。その、あまりにも純粋で危うい輝きに満ちた笑い声が――引き金になった。




 不意に、耳の奥で甲高い金属音が鳴り響く。


 脳裏に、映像のない感覚だけが鮮烈に蘇る。鼻を刺す血の匂い。短い悲鳴。




 ――助けて、エルナ先輩……!




 伸ばした手が虚空を掻いた、あの絶望の瞬間。




「……っ」




 エルナは息を詰め、無意識に己の腕を強く抱きしめていた。


『二度と、誰かのために剣は抜かない』


 血の海の中で立てた誓いが、亡霊のように魂を苛む。失う痛みは、もうごめんだ。




(だが……このまま見過ごせば、あの子たちは死ぬ)




 危険を知りながら、背を向ける。それは見殺しだ。


 あの日は、戦って、それでも守れなかった。だが、今回は?




「あの子達は、私じゃない……」


 エルナは呪文のように呟いた。


「あの日の……あの子達とも、違う」




 分かっている。だが、瞳の奥に宿る光が、あまりにも似すぎていた。


 若さという名の、無防備な輝きが。




「……二度と、あんな思いは」


 その言葉が、今度は違う意味の刃となって胸に突き立った。


 自分が傷つくことへの怯えではない。


 あの子達に、自分と同じ地獄を歩ませたくないという、祈りに似た絶叫。




 守れなかった者たちへの、消えることのない贖罪の念が、恐怖で塗り固めた壁を砕いた。




 ▶ **精神デバフ【トラウマ】による行動制限を解除**


 ▶ **ステータス【覚悟】を獲得**




 ふっ、と。


 エルナの貌から、すべての葛藤が抜け落ちた。


 再び彼女が顔を上げた時、その灰色の瞳にあったのは、嵐の後の海のような、鋼の輝きだけだった。




(派手な助太刀はしない。あの子達が気づかぬうちに、脅威の根を断つ)


 それが、今の私にできる、唯一のこと。




 ---




 決意は、肉体から一切の躊躇いを削ぎ落としていた。


 夜の闇に溶け込むための軽量な革鎧。走っても跳んでも音を立てない武具。完璧な準備。




 夜勤の受付職員から夜間通用口の鍵を受け取る。


「へい……。東の森、ですかい」


「……」


 沈黙は、いかなる肯定よりも重い。




 職員の視線が、彼女の腰に固定された薬品帯ポーション・ベルトに注がれた。回復薬や解毒薬に混じって、一本だけ、粘性の高そうな琥珀色の液体が微かに鼻を突く刺激臭を放っている。




 ▶ **アイテム:マンティコア誘引薬(高純度)**




 鍵を受け取ったエルナは、一瞥もくれずに踵を返す。


 分厚い扉を開くと、湿った土と腐葉土、そして微かな獣の血の匂いを孕んだ夜気が彼女を迎えた。戦場の香りだ。




 西の空には、不吉な赤黒い雲が月を蝕んでいる。


 だが、エルナは動じない。その視線は、地平の闇――東の森へと真っ直ぐに据えられていた。




【スキル:隠密】を発動。


 エルナの姿が、音もなく夜の闇に溶けていく。まるで、久しく帰らない主を迎えるように、森は彼女を静かに受け入れた。




 ***




 夜の森は、不気味なほどに静かだった。


 湿った土の匂いに混じり、私のスキル【気配感知】が微かな『違和感』を拾い続けている。森狼フォレストウルフの縄張りの匂いでも、ゴブリンの巣穴から漏れる不快な臭気でもない。もっと根本的な、世界のルールから逸脱したような歪んだ気配。




 不意に、前方の茂みが揺れた。


 ――ゴブリンが二体。ランクF。ウォームアップにもならない。




 私が動いたのは、彼らが殺意を感知するよりもコンマ数秒早い。


 抜き放った双剣の一振りが、音もなく闇を裂く。*シュン*。一拍遅れて、鈍い呻き声が霧に溶けた。一体目が喉を押さえて崩れ落ちる。仲間が何事かと振り向いた瞬間には、私はすでにその背後を取っていた。冷たい刃が首筋を走り、二体目の命も静かに霧散する。




 血振りをして、剣先に付いた粘液を払う。一連の動作に感情はない。ただの作業だ。




「……違う」




 吐き出した呟きが、白い息になる。


 こいつらじゃない。私が追う不吉な気配の源は、もっと森の奥深く、光の届かない場所にいる。




 それから数時間、私は森を駆け巡った。雑魚モンスターの群れをいくつか掃除したが、夜が白み始めても『違和感』の正体は掴めない。まるで私をからかうように、気配は森全体に薄く拡散しているだけだ。




「……見つからない、か」




 さすがに焦りが募る。このままではラチが明かない。一度ギルドに戻って情報を整理し直すのがセオリーだろう。私が踵を返し、撤退を決意した、その時だった。




「――だから言っただろ!昨日のゴブリンなんて、俺一人でも余裕だったって!」


「カイル、調子に乗るなよ。あれは群れからはぐれた雑魚だ」


「うるせえな!次はもっと奥まで行って、でかいのを狩ってやるんだ!」




 霧の向こうから聞こえてきたのは、若く、無駄に自信に満ちた声。この静謐であるべき夜明けの森には、あまりに不釣り合いな騒音だった。




(……馬鹿が)




 私は思考よりも早く、傍らの羊歯の茂みに身を滑らせる。【隠密】スキルを発動し、完全に気配を消した。




 霧の中から現れたのは、三人の若手冒険者。先頭を歩くのは、鍛冶屋の息子カイル。ギルドでもよく見かける顔だ。装備は綺麗だが、歴戦の深みがない。何より、彼らには森に対する警戒心という、冒険者として最低限のスキルが欠けていた。




「もっと奥に行けば大物がいるって!そいつを狩れば、一気にランクアップだぜ!」


「無茶だって。ギルドのエルナさんにも、いつも注意されてるだろ」


「あの人は心配性なんだよ!俺たちはもう、ただの駆け出しじゃねえんだからさ!」




 聞こえてくる会話に、思わずこめかみが引き攣る。


 なぜ来る。よりにもよって、このタイミングで。この森は今、危険な『何か』が潜んでいるというのに。




(……面倒なことになった)




 過去の記憶が、苦い後味と共に蘇る。仲間を失った、あの日の光景。もう二度と、あんなものは見たくない。




 警告すべきか?


 いや、無駄だ。今の彼らに何を言っても、ベテランの老婆心くらいにしか思わないだろう。功を焦る若さとは、そういうものだ。




 ならば、どうする。


 見捨てる?――冗談じゃない。




 カイルたちが森の奥へと消えていく。その数分後。


 私は静かに息を吐き、彼らが残した足跡を追って、慎重に追跡を開始した。




 彼らに気づかれることなく、その命を守る。


 不本意ながら、臨時で彼らの『影』として、護衛クエストを開始することにした。




 ***




「ははっ、見たかよ今の! ゴブリンが飛び出すより先に、俺の剣が閃いたぜ!」




 カイルの得意げな声が森に響く。


 私は巨大な樫の木の陰で、静かにため息をついた。




(……愚かね)




 内心で呟く。彼らが今倒したゴブリンは、ただの斥候だ。その死角には、最低でも五体の伏兵が潜んでいた。私が【投擲】スキルで小石を放ち、別の物音で伏兵の注意を逸らさなければ、今頃彼らは無事では済まなかっただろう。




 死地へ向かっている自覚が、あの雛たちにはまるでない。


 東の森は、入り口付近こそ初心者向けのフィールドだが、一線を越えればそこはランクC以上の魔物が闊歩する危険地帯デンジャーゾーン。彼らは今、間違いなくその『一線』を越えていた。




「おい、見ろよ! あそこに光苔が群生してるぜ。高く売れるやつだ!」




 カイルが指さしたのは、岩壁の窪み。確かに、青白い光を放つ希少な苔だ。だが、私の【危険察知】スキルは、その真上に潜む脅威を明確に捉えていた。巧妙に偽装された、巨大な蜘蛛の巣。ランクD+のファングスパイダー。今の彼らでは苦戦は必至だ。




「よし、俺が取ってくる!」


 功を焦るカイルが、無防備に一歩を踏み出す。




(やれやれ……)




 私は舌打ちし、足元の石を指で弾いた。石は鋭い音を立てて彼らの頭上を越え、岩壁から大きく外れた藪に着弾する。




 ガサガサッ!




 物音に反応した巨大な蜘蛛が、巣の奥へと素早く身を隠した。


「ん? なんだ?」


 カイルは足を止めたが、すぐに興味を失ったようだ。


「待って、カイル!」弓使いの少女が彼の腕を掴んだ。「なんだか、空気が……変じゃない?」




 ようやく気づいたらしい。森のざわめきが、完全に消えている。


 風が止み、音が死んだかのような、絶対的な静寂。




 グルルルゥ……。




 地の底から響くような、低い唸り声。


 それは一つではなかった。右から、左から、そして背後から。悪夢のように重なり合い、彼らを取り囲んでいく。




 茂みの隙間から覗く、飢えと殺意に満ちた無数の光。


 ――フォレストウルフ。ランクCモンスター。その群れの数は十を超える。総合的な脅威度は、Bランクに相当する。




「ひっ……」


 魔術師の少年が悲鳴を漏らす。カイルは震える手で剣を握り、虚勢を張って叫んだ。


「う、うろたえるな! 円陣を組め!」




 だが、完全に恐怖に呑まれたパーティに、連携など望むべくもなかった。


 一匹の狼が地面を蹴ったのを合図に、十数匹の獣が一斉に襲いかかる。




「うわあああっ!」


「来ないで!」




 悲鳴が上がる。カイルは必死に応戦するが、狼の前脚の一撃で剣を弾かれ、あっさりと体勢を崩した。その隙を、別の狼が見逃さない。




「しまっ……!」


 肩を噛まれ、地面に叩き伏せられるカイル。仲間たちもそれぞれが狼に囲まれ、陣形は完全に崩壊していた。




 そして、最悪の事態が起こる。


 防御が手薄になった魔術師の少年が、狼のタックルを受けて吹き飛ばされた。無防備に倒れた彼の上に、巨大な影が躍りかかる。




「ギャッ!」


 短い悲鳴。狼は少年を地面に縫い付け、その喉笛に牙を剥いた。




(――間に合わない!)




 思考が白く染まる。影から守るなどという甘えは、もう限界だ。


 私は樫の木の陰から、黒い流星となって飛び出した。




 ザッ、と地面を蹴る音は、誰の耳にも届かない。


 ただ、一陣の風が狼たちの間を駆け抜けた。




 キィンッ!




 甲高い金属音。それは、少年の喉元に迫っていた狼の牙を、私の双剣が弾いた音だった。


 何が起きたのか理解できぬまま、狼の首が宙を舞う。




 私の動きは止まらない。


 それは、彼らの泥臭い戦闘とは次元の違う、洗練された剣舞。狼の爪を紙一重でかわし、牙を受け流し、その返す刃で急所だけを正確に切り裂いていく。




 一閃。狼の眉間が割れる。


 二閃。別の狼の心臓が貫かれる。


 三閃。飛びかかってきた狼の腱が断ち切られる。




 これは戦闘ではない。一方的な蹂躙だ。


 数秒後、生き残った狼たちは恐怖の咆哮を上げ、蜘蛛の子を散らすように森の闇へと逃げ去っていった。




 後に残されたのは、数体の狼の死骸と、血の匂い。そして、目の前の光景が信じられず、石のように固まるカイルたちだけだった。




 私は双剣の血を払い、鞘に収める。そして、まだ座り込んだまま震えている魔術師の少年に、手を差し伸べた。




「立てるか? 怪我は?」


「あ……は、はい……」


 少年は夢でも見ているかのような顔で、私を見上げていた。




 ***




 安堵の息をつき、私がカイルたちの方へ向き直る。


「お前たち、ここで何を――」




 無謀な若者たちに、厳しい説教を始めようとした、まさにその瞬間だった。




 森が、死んだ。




 狼の気配すら些細なことに思えるほどの、絶対的な圧力が空間を支配する。風も、音も、光さえも、全てが巨大な何かに呑み込まれたかのように消え失せた。




 そして、狼の血の匂いを塗り潰すように、それは来た。




 脳髄を直接揺さぶるような、冒涜的なまでの『異臭』。生命の本能が警鐘を乱打する、絶対的捕食者の気配。




 私の脳内に、無機質なシステムメッセージが響き渡った。




 `[警告:高密度魔力シグネチャを検知]`


 `[危険等級:識別不能。推奨脅威ランク:A+以上]`




 全身の産毛が逆立ち、背筋に氷を叩き込まれたような悪寒が走る。


 ――これだ。私が一晩中追い求めていた『違和感』の正体。




 最悪のタイミングで、最悪の敵が、ついにその姿を現そうとしていた。




 忘れられるはずがない。この匂いは――私に刻まれたトラウマのトリガー。




「な……なんだ、この匂い……」


「気持ち悪い……吐きそうだ……」




 カイルたちが顔を顰める。ただの不快感。だが、私の脳を直接揺さぶる警報とは、意味が違った。




 `[警告:状態異常『トラウマ・レゾナンス』を検知]`




 システムメッセージが、私の覚悟を上書きするように網膜に浮かび上がる。これは、私の過去を喰らい尽くした絶望の香りそのものだった。




 森の奥。対の燐光が、闇の底から静かに浮かび上がる。ざっ……ざっ……枯葉を踏む重い足音。それはゆっくりと、しかし確実に、我々の破滅を告げに来ていた。




 やがて、月明かりの下にその姿がぬらりと現れる。


 獅子の胴体、蝙蝠の翼、そして猛毒を湛えた蠍の尾。最悪なのは、苦悶に歪む人の顔を模した頭部。その双眸には、冷酷な知性が宿っていた。




(マンティコアの……幼体ラルヴァ! 成体ならランクA+の絶望的な怪物だが、これでもランクB+はある!)


 まだ成体ではない。1対1(サシ)なら互角、いや、今の私なら押し切れる相手だ。


 だが、後ろには足手まといの雛たちがいる。彼らを守りながら戦うという致命的なハンデを背負って、同格イーブンの相手と踊らなければならない。


 放たれるプレッシャーが、この森のエリアボスであることを示していた。カイルたちは金縛りにあったように動けない。




 グルルルルゥ……。




 地を這うような唸り声。それが引き金だった。


『トラウマ・レゾナンス』が発動し、視界がぐにゃりと歪む。目の前の景色が、あの日の血の海とオーバーラップする。




『エルナ先輩……』




 幻聴だ。分かっている。それでも、鮮明すぎる後輩の声が、私の意識を過去の奈落へと引きずり込む。格上の魔獣。半壊したパーティ。守れなかった、仲間たち。




『逃げ……て……』




(……また、同じだ)




 砕けた心が、思考を停止させる。




(また、守れないのか……? 私が、ここにいる意味は……?)




 `[精神抵抗メンタルレジストに失敗。行動不能スタン状態に移行]`




 心が、ぽっきりと折れる音がした。


 その、絶望に意識が沈み切る寸前。




「エ、エルナさんッ……!」




 カイルの絶叫。それは幻聴じゃない。今、ここで響いている『現実』の音。


 ――エルナさん。


 その呼び声が、悪夢に突き立てられた一本の楔となった。




 ハッと、私は息を呑んだ。


 パリン、と硝子が砕ける音を立てて、血の幻影が霧散する。




 `[状態異常『行動不能』を解除。精神汚染メンタルデバフ継続中]`




(……違う。まだ、誰も死んでいない!)




 硬直していた指先に、ゆっくりと力が戻る。


 私は悪夢を振り払うように一度強く目を閉じ、再び開いた。その双眸に宿るのは、鋼の如き戦士の光。




「――私が、相手だ」




 `[システム:精神汚染メンタルデバフ全解除]`




 ***




 咆哮が世界を揺るがす。


 だが私の動きは、時が止まったかのように静かだった。双剣を構え直し、切っ先をマンティコアの顎に固定する。微動だにしない。




 風を裂く音よりも速く、マンティコアの巨躯が消えた。


 次の瞬間、眼前に迫る死の塊。横薙ぎに振るわれた前脚の鉤爪。




「ッ!」




 半歩踏み込み、双剣をX字に交差させて受け流す。




 ガギィンッ!!




 脳髄を揺さぶる衝撃音。火花が闇を焦がす。


(くっ……! STR(筋力)の差がデカすぎる!)


 まともに受ければ一撃でHPが尽きる。だが、私が引けば、背後のカイルたちがミンチになる。




「グルゥァッ!」




 衝撃を利用して空中に舞う。回転しながら放つスキル――【ツイン・ファング】が魔獣の鼻先を掠め、僅かなダメージを与える。


 激昂したマンティコアが吠え、間髪入れず、蠍の尾が心臓を狙う。




 `[毒属性攻撃を検知。回避判定……失敗!]`


 `[毒耐性ポイズンレジストスキル判定……成功!]`




「させ、ないっ!」




 腰のポーチからアイテム【煙幕玉】を地面に叩きつける。ボンッ! と白煙が爆ぜるが、マンティコアのスキル【ウィングバフェット】が生み出す暴風が、それを瞬時に吹き飛ばした。小賢しい、と嘲笑うかのように、追撃の尾が私の横腹を掠める。




「がはっ……!」


 革鎧が裂け、熱い痛みが走る。HPがごっそりと持って行かれる感覚。


「エルナさん!」


 カイルが飛び出そうとする。


「来るなッ!! ヘイト(敵対心)が移る!」


 私が叫んだ一瞬の隙。マンティコアの爪の連撃が襲い来る。一合、二合、三合。


 防ぐたびに双剣の耐久値が削れ、腕の感覚が麻痺していく。背後の雛鳥たちを守るという縛り(デバフ)が、私の動きを致命的に制限していた。




 投げナイフは弾かれ、罠を仕掛ける時間はない。最後の回復ポーションを呷る余裕すらない。


 ジリ貧じゃない。これは、詰み(チェックメイト)へと向かう緩やかな処刑だ。




 ***




 喉から獣のような呼気が漏れる。アイテムポーチは空。MPも枯渇寸前。


 視界の端で、恐怖に立ち尽くすカイルたちが見える。こんな結末バッドエンドは、絶対に認めない。




(守る…)




 灼けつく肺の痛みが、あの日の誓いを思い出させる。




(――二度と、あんな思いは)




 背後でマンティコアが最終攻撃フィニッシュムーブの体勢に入る。




「…これしか、ない…」




 覚悟を決め、革鎧の内ポケットに指を滑り込ませる。氷のように冷たい、拘束系の魔法結晶。来年一年分の生活費と引き換えに手に入れた、切り札中の切り札。




 躊躇は一瞬。私はそれを引き抜き、振り返りざま、巨大な影の中心へと投げつけた。


 アイテム――【高純度ステイシス・クリスタル】。




 刹那、世界から音が消え、閃光が森を真昼に変えた。




 `[対象:マンティコア 状態異常『完全拘束ステイシス・ロック』を付与]`


 `[効果時間:7秒]`




 光の鎖がマンティコアの巨体を縛り上げる。




「今だ! 走れ!」


 呆然とするカイルたちの腕を掴む。


「エルナさん!?」


「問答は後! 川へ! 生きたいなら走れ!」




 生存本能だけが四人を突き動かす。木の根に足を取られ、枝が頬を裂く。痛みも苦しみも感じない。ただ前へ。セーフティゾーンである、川へ。




 背後で、玻璃が砕ける音が響いた。


 `[効果時間終了。対象のAGI(俊敏性)が30%上昇]`




 グルォォォオオオオオオッ!!




 怒りの咆哮。束縛という屈辱が、魔獣の凶暴性をブーストさせた。先ほどとは比較にならぬ速度の追跡が始まる。




「くそっ…! 速すぎる…!」


 カイルの悲鳴。


(まだだ…まだ間に合う…!)


 闇に慣れた瞳が、木々の隙間に水のきらめきを捉えた。


「見えた! あそこだ!」




 最後の力を振り絞り、森を転がり出る。眼前に、轟々と流れる濁流。


 だが、背後の気配はすぐそこまで迫っていた。




「行けぇっ!!」




 川岸に辿り着いた瞬間、カイルたちの背中を突き飛ばす。三つの体が水面に叩きつけられ、私も最後の一歩で地を蹴った。


 心臓を鷲掴みにする川の冷たさが、マンティコアが追跡の目印にしていた汗と血の匂いを洗い流していく。




 水面に顔を出すと、対岸のマンティコアが苛立たしげに地を掻いていた。どうやら川は渡れないらしい。


「…渡るぞ…! 岸に上がれ…!」


 最後の気力を振り絞り、泥塗れになりながら四人は対岸へと這い上がった。




「…やった…助かった…エルナさん、あなたのおかげで…」


 カイルが感謝の言葉と共に振り返った、その時だった。




 張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。


 `[警告:生命維持限界。全活動を停止します]`




 立っていたはずの私の身体が、ゆっくりと傾ぐ。


 極度の緊張とアドレナリンが切れ、蓄積されたダメージと疲労が、限界を超えた肉体と精神を完全にシャットダウンさせた。




「エルナさん!?」


 カイルが駆け寄るより早く、私の身体は音もなく地面に崩れ落ちた。


 薄れゆく意識の中、仲間たちの焦る声が遠くに聞こえる。


(…ミッション、コンプリート…か…)


 守りきれた。その事実だけが、冷え切っていく心に小さな温もりを灯す。微かな安堵と共に、私の意識は深く、静かな闇へと完全に溶けていった。




 ---




 夜の冒険者ギルド。酒場は一日のクエストを終えた者たちの熱気で満ちていた。


 私は隅のテーブルで、一人静かにエールを呷っていた。数時間前に医務室で飲んだ回復薬の苦い後味が、まだ舌に残っている。




(…危なかった。本当に、紙一重だったな)




 死線を越えた後の虚脱感。魂が燃え尽きたような空っぽの感覚に、ただ身を任せる。




 不意に、テーブルに三つの影が落ちた。


 顔を上げると、治療を終えたカイルたちが、石像のように直立していた。


 私は何も言わず、ただ見返す。言葉を発するだけのMPが、まだ回復していなかった。




 次の瞬間、三人は揃って腰を折った。それも、床に額を擦り付けるほどの、完璧な土下座だった。


(……やめろ。そういうのは、性に合わない)




 やがて、カイルがおずおずと顔を上げた。その瞳には、恐怖ではなく、確かな決意の光が灯っている。




「エルナさん……。俺たちに、『生きて還る』ということを、教えてくださって……ありがとうございました」




 その言葉が、凍てついた記憶の扉をこじ開ける。


 守れなかった後輩の姿。あの日から、私の時間は止まっていた。誰かを導く資格なんて、とうに失くしたと思っていた。


 だが、今日の光景が重なる。泥だらけで、それでも必死に戦おうとした彼らの姿。




 ――死なせなかった。


 ――守り抜いた。




 過去が消えるわけじゃない。それでも、凍てついた心に、今日という名の熱い石が投じられ、確かな波紋が広がっていく。




 張り詰めた沈黙を破ったのは、カウンターの奥から歩いてくる足音だった。


 このギルドの女主人、エンさんだ。彼女は私の前に、ことりと木製の椀を置いた。ふわり、と湯気が立つ、干し肉と野菜のシチュー。




「お帰り。……全員揃ってるとは、上出来じゃないか」


 無骨で、短い、だが温かい声。




「……座れ。腹が減っているだろう」


 自分でも驚くほど、声が掠れていた。


 カイルたちが戸惑いながらも向かいの席に座る。私は細く、長い息を吐いた。それは疲労ではなく、凍てついた何かが融解するような、安堵の息。




 ほんの僅か、私の口元が緩んだ。


 微笑と呼ぶには些細すぎる、誰にも気づかれないくらいの変化。


 私はゆっくりと木匙を手に取り、湯気の立つシチューを口に運んだ。




 じんわりと広がる熱が、冷え切った身体の芯へ、そして止まっていた心の奥深くへと、ゆっくりと沁み渡っていく。


 過去は消えない。でも――確かな温もりが、今、ここに在る。


 今は、それだけで十分だった。




 ***


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