第7話
教室に入った途端、
その理由がわかるから、おはようと言ったあと、「ダメだ」からなと先に言ってやった。
「瑠生ー、俺まだ何も言ってないけど」
「中一からの付き合いなんだ、言わなくてもわかる。宿題は自分でやるんだ」
机にかばんをかけながら、まず断る。
「凄いなぁ。俺の心が読めるなんて。さすが、瑠生さま。二年も同じクラスでよかった」
「おだててもダメ。自分でしないとテストで困るぞ」
教科書を机に置くついでに、机の中にこっそり忍ばせたノートを指で確認しながら言った。
「だってさ、
「そりゃ読んであげないとね。でも、そのあとで宿題すればいいだろ?」
「いやー、それが一緒に寝ちゃってさ……」
鼻の頭を掻きながら、昇真が照れたように笑う。
「それに昨日はアニキが飲み会で遅かったから、雪のやつ拗ねてたんだ」
瑠生の机に顎と手を乗せ、縋るような目で甘えてくる。
この表情か。女子が可愛いって騒ぐのは。
背が高いから、剣道着がやたら似合う。
普段は凛々しいのに、笑うと目が垂れて途端に愛されキャラにもなるし。
昇真みたいなのを、『ギャップ萌え』って言うんだろうな。
そう言えば、梅ちえ姐さんも昇真のこと、イケメンって言ってたっけ。
高校生になれば、さらにモテる予感がする親友の前に、瑠生はノートをぶら下げた。
「今日は雪ちゃんに免じて貸してやる。数学が始まるまでに写しちゃえよ」
「るーい。さすが親友、ありがとな。すぐやっちゃうから」
飛び上がるように立ち上がると、ノートを頭の上に乗せながら席へと戻って行った。
背中を丸めてせっせとノートを書く、微笑ましい後ろ姿を見届けると瑠生も席に座った。
五時間目が終わり、教室が帰宅モードになっていると、どこからか鼻歌が聞こえてきた。
音の方を見ると、昇真がスキップしながらこっちにやって来た。
「瑠生、今日は助かったよ。おかげで当てられても余裕だった」
「お役に立てて光栄だよ、兄ちゃん」
「なんだ。瑠生はアニキが欲しいのか。いいぞ、俺のこと兄ちゃんって呼んでも」
腰に手を当てて踏ん反り返る親友を見ながら、瑠生は笑った。
一年のとき、今みたいに明るく声をかけてくれた昇真に、瑠生は救われた。
芸者を水商売のホステスみたいに思っているのか、瑠生は同級生から距離を置かれていた。
けれど、昇真だけは普通に接してくれた。おまけに、『置屋を見たい』なんて言うし。
その言葉は、隠したり恥じたりすることじゃない。そう言ってくらている気がした。
男は置屋に入ることを禁止されている。だから、玄関までで我慢してもらったけど。
あのとき、『いい匂いがする』って嬉しそうに言いながら、玄関で鼻をヒクつかせていたっけ。
瑠生がゲイだと知っても、「じゃ、好きな子かぶんないな」って笑ってくれた。
だからこそ、宿題くらい手伝ってやるのは、むしろ嬉しいこと。
「兄ちゃん……」
「な、なんだ。いきなり呼ぶなよ、照れるじゃ——」
「ぶ・か・つ。始まるぞ」
「やばっ! あと五分しかない。サンキュウな、瑠生」
慌てた顔で手を振る昇真を見送ると、瑠生は帰り支度を整えた。
今日は桔梗から教わる笛の稽古の日だ。
「俺も帰るか」
かばんを肩にかけると、少しだけ早足で教室を出た。
靴を履き替えて門の外に出ると、穏やかな風が瑠生の髪をすり抜けていく。
麗らかな季節は、瑠生の全身を優しく包み込んでくれた。
ふく里で暮らして三度目の春。ようやく自分も、この町の一部になれた気がした。
***
桔梗に笛の稽古をつけてもらっていると、玄関の呼び鈴が鳴った。
間を置かず、引き戸を叩く音。「ごめんください」と男の声が聞こえた。
腰を上げようとした桔梗に、「俺が行ってくるよ」と言って、瑠生は玄関へ向かった。
すりガラスの向こうに、背の高い男の影が映っている。
サンダルを履きながら「どちら様ですか」と声をかけて引き戸を開けた。
「……こ、こんばんは。あの、こちらは置屋の『ふく里』さんで間違いないでしょうか」
一瞬、息を呑んだような顔をした男性が、瑠生をジッと見つめてくる。
紺色のスーツ姿はあつらえたみたいに体にピッタリで、モデルみたいに整っていた。
センターで分けた前髪が風に揺れ、西陽を受けた輪郭が淡い橙に縁どられている。
あ、この人、いい匂いがする……
その香りに惹かれるよう、瑠生はそっと息を吸い込んだ。
この匂い、知ってる気がする。何でだろ、会ったことなんてないはずなのに。
男の目がふいに細められた。
探るように、けれど何かを確かめるように、瑠生の顔を見つめている。
そんな視線に瑠生は首を傾げた。
何でこの人、さっきびっくりした顔したんだろ。それに、やっぱどっかで見たことあるような……。えっと、どこでだっけ。
考えているうちに、「あの」と声がかかった。
「あ、すいません。ふく里で合ってます」
「では、
田辺──。その名前に一瞬、空白が走る。
考え込んだ三秒後、瑠生は、あっ、と声を出してしまった。
お母さんの本名だ。みんな桔梗って呼ぶから、うっかり忘れていた。
「あ、はい。いますけど……どちら様ですか」
「僕は、沖といいます。田辺さんにお話がありまして」
名刺を差し出す沖の目が、まっすぐ瑠生をとらえる。
俺の顔ばっか見て。顔に何かついてるのかな。
ほんの少し、視線を外したくなったとき、妙に心がざわついた。
「ちょっとお待ちください」
名刺を受け取って部屋に向かう。
廊下の途中で、なぜか背中に視線を感じた。
振り返ると、沖がまだ瑠生を見ていた。
目が合った瞬間、なぜか胸の奥がドクンと鳴った。
心臓が慌てるから、瑠生は逃げるように部屋へ戻った。
「お母さん、お客だよ。沖って人」
「沖? 沖ねぇ……どこの沖さんだい」
「名刺に書いてない? でも俺、どっかで見た顔なんだよな」
瑠生が名刺のロゴを指さす。
「眼鏡がないから見えないね。読んどくれ」
「仕方ないなぁ」
瑠生はカッコつけて読み上げた。
「えっと──『おきコンサルティング』。代表取締役、沖尚純だって」
「……沖、沖ねぇ。ああ、そうだよ。沖って——」
桔梗の表情が一瞬だけ変わった。
「知ってる人?」
座卓に肘をついて前屈みになった桔梗が、瑠生を見据えて言ってきた。
「瑠生、覚えてないかい? 半玉の蓮香を呼んでくれって言ってたお客だよ」
記憶を手繰るように天井を見上げる。次の瞬間、ぱっと顔を上げた。
「わかった! 寄付の吉田さんと一緒にいた、あの下座の人だ!」
「そう。その沖さんだ。まったく、まだあんたのことを諦めてないらしいね」
桔梗が立ち上がりながら、「どれどれ、断ってくるよ」と小さく息をついた。
気になった瑠生は、自然とその背中を追っていた。
「お待たせしました、田辺です。初めましてでよろしかったですよね」
玄関に正座する桔梗の後ろで、瑠生も同じように膝をついた。
見上げた先に立つ男が、穏やかに会釈をする。
「ええ。初めまして、沖尚純と言います。今日は田辺さんにお願いがあって参りました。以前、吉田会長から連絡があった件ですが……どうしても諦められなくて。無礼を承知で押しかけた次第です」
きりりとした眼差しと、張りのある声。それに見合った堂々とした立ち姿に、桔梗の肩に力が入ったのが伝わる。
「会長から伺っています。そして、その件はきちんとお断りいたしました」
「承知しております。ですが、どうしても——」
沖が深々と頭を下げる。ウェーヴの前髪が頬に落ちて、表情が隠れた。
桔梗の背から身を乗り出した瑠生は、無意識にその横顔を覗き込む。
……睫毛、長い。男の人なのに、すごくきれいだ。
「来てもらって申し訳ないけど、あの子はまだ半人前なんです。お客様の前に出すのは、まだ早いですよ」
「ですが、この間のお座敷にきましたよね。踊りも素晴らしかった。それに半玉さんでも座敷に上がれるでしょう。なぜ彼女だけ──」
食い下がる沖の言葉を、桔梗が遮る。すっと立ち上がり、まっすぐに見据えた。
「あの子の本業は学生なんですよ」
一刀両断するように桔梗が言い放つ。
沖が小さく息を飲んだのが聞こえた気がした。
「学生……。そうですか。あの、蓮香さんは——おいくつなんですか」
「無粋ですね。芸者に歳を聞くなんて。学生だということだけで、勘弁してもらえませんか。要件がそれだけなら、どうぞお引き取りを」
桔梗が腕を玄関の外へ伸ばし、退場を促す。
沖の顔を見上げると、瑠生と目が合った。
びっくりして瞬きをすると、口角を僅かに上げただけの微笑みが返ってくる。
「わかりました、今日は退散します。でも、僕は諦めませんので──また」
軽く頭を下げる沖に、桔梗が、またはあるかね、と冷たくあしらう。
場の空気に不安を覚えた瑠生は、「俺、お見送りしてくる」と言って玄関を飛び出した。
「あの、沖さん。お見送りさせてください」
サンダルをつっかけて追いかけると、沖が庭先で立ち止まっていた。
きれいな横顔が顎を上げて何かを見上げている。
瑠生がその視線をたどると、かぐわしい香りを放っている八分咲きの木蓮を見ていた。
「それ、白木蓮ですよ。きれいでしょう」
同じように見上げた瑠生が伝えた。すると両手を広げたまま目を閉じた沖が、思いっきり深呼吸をしている。
「白木蓮か……いい香りだな。思わず立ち止まってしまった」
「でしょ。本当は四月頃が開花時期なんですけど、この木蓮は少し遅くて、五月の今が満開なんです」
沖の目が開き、花を惜しむように見つめる。
「沖さん、今夜ここに来てラッキーですよ。たぶん、今年いちばんの満開だから。高級な香水にも負けないくらい、いい香りがするでしょ」
瑠生は木蓮を指さしながら、梅ちえが蓮香の由来を話してくれたことを思い出していた。
初めてここへ来た瑠生を歓迎するよう、咲いた木蓮の話を。
白い花に魅入っていると、ふと、頬に視線を感じた。
もしかして、沖さん、俺を見てる……?
恥ずかしさで、木蓮を指差したままの指まで震えてしまう。
熱を孕んだ目で見つめられていると、沖に抱き締められたことを思い出した。
そうだ、俺この人に抱き締められたんだ。おまけに、素顔を見たいとか、着替えてくれとか変なこと言ってた。
あの日のことがよみがえる。
触れられて緊張した指先、そして沖に抱き締められた瞬間。
さっきよりも心臓がバクバクしてきた。
あ、もしかして。さっき俺を見てびっくりしたの、蓮香って思ったんじゃ……
どうしよう、バレたら一大事だ。
チラリと横目で確認すると、瑠生の不安を一蹴する微笑みがそこにあった。
あれ、笑ってる。バレてない……?
不安気に沖を見上げると、庭に優しい風が通り抜けた。
その風で沖の前髪が揺れ、彼の香りと木蓮の香りが重なる。
ふくいくとした香りが瑠生の意識をとろけさせ、体の奥からじわりと熱が生まれて、沖の顔を見れなくなってしまう。
沖の微笑みは『気づいていない』顔にしては、どこか優しくて瑠生は戸惑ってしまった。
「……君は、ここに住んでいるのか」
「は、はい、そうです」
驚いて、声が裏返ってしまった。
うわ、変な声出ちゃったよ。恥ずい。
そう思った瞬間、沖の唇から笑い声が漏れた。
「ああ、すまない。君が可愛いくて微笑ましいから、つい」
低く澄んだ声が、胸の奥をくすぐった。
──あなたの方こそ、大人でかっこよすぎます。
心の中で、瑠生も伝えてみた。
「君の名前はなんて言うの? 歳は幾つかな。君は田辺さんの孫なのか?」
耳心地のいい音に酔っていると、どんどん質問が重なる。
「来栖瑠生です。十四歳……」
答えたものの、瑠生は咄嗟に口を噤んだ。
あれ、俺って素性を明かしてよかったのかな……
「来栖……。名前が違うのは、田辺さんとは他人?」
瑠生は一瞬言葉に詰まった。胸が跳ねるのがはっきりと感じる。
「は、はい。孫じゃないです。両親がいない俺をお母さ──田辺さんが引き取ってくれたんです。なので、お母さんとは血の繋がりはありません」
「そう……か」
小さく呟くと、沖が瑠生の顔を見つめてきた。
「それで君は男子禁制なのにここで暮らせるのか。では、もう一つ。君には女の兄妹はいないか。それと、普段から着物を着たりする?」
さっきまでの穏やかな空気と違い、次々と質問してくる。
そ、そんなに追い詰めないでよっ。
心の中で叫んでも、返事を催促するように沖が顔を近づけてくる。
「お、女兄妹はいないし、着物はお稽古のときに必ず着るよ。あの、俺、もう戻るね」
焦った瑠生は勢いよく頭を下げ、「お構いもしませんで!」と叫んで家に飛び込んだ。
引き戸を閉めて鍵をかけ、上がり框に突っ伏す。激しく騒ぐ自分の鼓動がうるさい。
やっぱり半玉が俺だってバレたんじゃないのか?
「どうしよう。あの人がしゃべったら、せっかくの寄付が……」
全身からサーっと血の気が引くのを感じた。
背中に短い沈黙が追いかけてきた気配で、瑠生は玄関を振り返った。
変な質問ばっかされたのも、俺のこと怪しんでるからじゃ……
沖がまだいるか、瑠生は耳を澄まして確認した。
「帰った……かな?」
稽古場の修理に惹かれて、『半玉をまたやってもいいよ』なんて軽口を叩いた自分が愚かだった。もっと慎重になるべきだったのに。
化粧して着物姿とはいえ、見る人が見れば『来栖瑠生』だと気づかれたかもしれない。
鼓動を抑えながら居間へ戻ると、桔梗がお茶を入れて待っていた。
「お母さん……。俺、女将さんに貰ったお饅頭食べたい」
何でもない風を装って、わざと呑気に言う。
桔梗はいつも通り、「いいよ」と微笑んだ。
けれど瑠生の心配をよそに、そのあと沖は何も言ってこなかった。
半年が過ぎ、一年が過ぎても、瑠生は注意深く過ごした。
やがて三年が過ぎるころには、あの出来事も、記憶の奥で静かに色あせていた。
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