#2 赤き拳はあなたを守る
最後の一個が引き起こす惨劇 - (橘圭一 視点)
悪夢にうなされた。夢の中で、巨大な黒い瞳が宇宙の果てから自分を覗き込んでいるのだ。その瞳から逃れようとどこへ走ってもどこに隠れても、常にその視線は背中に突き刺さっている。そして、耳元で囁くのだ。『どこへ行こうと、無駄ですよ』と。
橘圭一は、額にびっしょりと汗をかいて目を覚ました。自室のベッドの上ではない。警視庁本庁舎の一角にある、仮眠室のベッドの上だった。
時刻は、昼休みが始まる少し前。昨日の非番の日の精神的ダメージが大きすぎて、とても自宅のベッドで安眠することなど出来なかった。早朝に出勤して、人気のない仮眠室に逃げ込んでいたのだ。
「…最悪だ」
口からこぼれたのは、絶望のため息だった。昨日の出来事は、夢ではない。黒澤麗奈は橘のプライベートを完全に、完璧に掌握している。その事実が鉛のように重く、彼の心にのしかかっていた。
もう、どこにも安息の地はない。自宅も街も、そしてもちろん職場も。彼の人生は、24時間365日、高精度の監視下に置かれた囚人となんら変わりはなかった。
(いっそ、全てを投げ出して逃げ出すか…? いや、ダメだ。次長の息子という立場が、俺をこの地獄に縛り付けている。それに俺がどこへ逃げようと、あの女は必ず追ってくるだろう。アマゾンの奥地に逃げ込んでも、翌日には隣でハンモックに揺られながら、黒ストッキングの脚を組んで紅茶を飲んでそうだ)
想像して、ゾッとした。もはやこの状況を受け入れ、この地獄の中でささやかな幸せを見つけて生きていくしかない。
「…そうだ、唐揚げだ」
橘の脳裏に、一条の光が差し込んだ。そうだ、今日は火曜日。週に一度、職員食堂の日替わり定食が「若鶏のジューC唐揚げ定食」になる特別な日だ。
警視庁の食堂は、安くて美味いと評判だが、その中でもこの唐揚げ定食は別格の人気を誇る。絶妙な味付けの衣はサクサクと香ばしく、一口噛めば、中から熱々の肉汁がじゅわっと溢れ出す。その味は、橘の荒みきった心を、一瞬だけ癒してくれる、唯一無二のオアシスだった。
(よし、行こう。あれを食べれば、少しは気分も晴れるだろう)
橘はよろよろとベッドから起き上がると、鏡で身だしなみを確認した。目の下の隈は酷いが、いつもの完璧な「理想の上司」スマイルを顔に貼り付ければ誰も気づくまい。
彼は、固く心に誓った。今日だけは何があっても唐揚げを死守する、っと。
職員食堂は昼休みが始まったばかりだというのに、既に大勢の職員でごった返していた。様々な部署の制服やスーツ姿の男女が、思い思いに食事を楽しんでいる。その喧騒が、橘には心地よかった。大勢の中に紛れ込んでしまえば、あの三人の監視の目も少しは届きにくくなるはずだ。
彼はトレーを持つと、日替わり定食の列に並んだ。心臓が、期待に高鳴る。列の先頭、大きなガラスケースの中に、山のように積まれた黄金色の唐揚げが見えた。
(あった…! 俺の唐揚げ…!)
まるで、砂漠でオアシスを見つけた旅人のような心境だった。列は、ゆっくりと進んでいく。橘は自分の少し離れたテーブル席に、すでに部下たちが座っていることに気づいた。
麗奈は、相変わらず涼しい顔で本を読んでいる。その完璧に着こなされた制服姿とテーブルの下で上品に組まれた黒ストッキングの脚は、食堂の喧騒の中にあって異質なほどの静謐さと色香を放っていた。
雪乃は、無表情でサラダをつついている。少し大きめのブレザーから伸びる白いニーハイソックスに包まれた華奢な脚が、彼女の儚げな魅力を際立たせている。
そして陽菜は──ぶんぶんと、大型犬のように尻尾を振る幻覚が見えるほど、嬉しそうにこちらに手を振っていた。
彼女はブレザーのボタンを開けっ放しにし、袖を捲ったラフな着こなし。ワイシャツの一番上のボタンも外しており、そのダイナマイトな胸元が今にもはち切れんばかりにその存在を主張している。そして白いショートソックスから伸びる、健康的な素足。椅子に座っているため、そのミニスカートがさらに際どい角度となり、橘の視線を釘付けにした。
(見え…! いや、見えん! だが、あと少し角度が変われば…!!)
橘は完璧な笑顔で小さく手を振り返し、内心でよだれを垂らした。
(だ、ダメだ! 何をしてる、俺! 殺されるぞ!)
だが幸いなことに、彼女たちはすでに食事を始めているようだった。これなら己が唐揚げ定食を選んでも、特に問題は起きないはずだ。
「日替わり、一丁!」
橘の前の男が、威勢のいい声で注文した。厨房のスタッフが、手際よく皿に唐揚げを盛り付けていく。あと三人。あと二人。そして遂に、橘の番がやってきた。彼は胸を高鳴らせながら、口を開こうとした。
──その瞬間だった。
「おっと、悪ぃな」
横から、ぬっと大きな影が割り込んできた。橘が顔を上げると、そこには屈強な体躯を持つ機動隊の制服を着た男が立っていた。年齢は三十代後半だろうか。日に焼けた顔には、人の良さそうな笑みが浮かんでいる。
「こいつがラスイチみたいだわ。もらってくぜ」
男はそう言うと橘の目の前にあった、最後の唐揚げ定食の皿をひょいと自分のトレーの上に乗せてしまった。
「……ぇ?」
橘の口から、間の抜けた声が漏れた。ラスイチ? 嘘だろ? 俺の唐揚げが? 俺の一週間の、たった一つの楽しみが? 自分の目の前で黄金色に輝く唐揚げが、無慈悲にも遠ざかっていく。その光景は、スローモーションのように見えた。
男は、悪びれる様子もなく「じゃあな」と片手を上げ、鼻歌混じりで去って行こうとする。
橘の頭の中は、真っ白になった。ここで何か言うべきか? 「すみません、私が先に並んでいたのですが」と。いや、ダメだ。相手は見るからに自分より腕力が強そうだ。それにそもそも事を荒立てるのが、死ぬほど面倒くさい。波風を立てれば、それがどんな形であれ、あの三人の耳に入る可能性がある。それだけは、絶対に避けたかった。
橘は次の瞬間には、愛想笑いを顔に貼り付けていた。
「いえいえ、どうぞどうぞ。お気になさらず」
内心では、血の涙が滝のように流れていた。
(俺の唐揚げ…俺のオアシスが…っ。嗚呼、神よ! なぜあなたはこれほどまでに、私に試練を与え続けるのですか…!!)
絶望に打ちひしがれながらも彼は代わりに、蕎麦でも頼もうかとメニューに視線を落とした。
その時だった。食堂の空気がまるで真冬の湖面のように、一瞬で凍りついた。さっきまでガヤガヤと騒がしかった喧騒が、嘘のように静まり返る。全ての会話が止み、箸の音も皿の音も何も聞こえなくなった。
異様な静寂。橘は、その静寂の原因を知っていた。知りすぎていた。
(……やめろ)
脳内で、けたたましく警報が鳴り響く。
(来るな。動くな。関わるな。頼むから、俺のために何もしないでくれ!)
その祈りは、もちろん、神に届くことはなかった。悪魔には、届いてしまったようだが。
ゆっくりと顔を上げると、視線の先に赤城陽菜が立っていた。彼女は席を立ち、いつの間にか唐揚げ定食を奪った機動隊員の前に立ちはだかっていた。
その表情は、いつもと変わらない。太陽のように明るい、屈託のない笑顔。だがその瞳の奥には、一切の光がなかった。まるで全てを吸い込んでしまう、暗黒星雲のような昏い光。機動隊員は目の前に現れた可憐な女性に、きょとんとした顔をしている。
「ん? どうした、嬢ちゃん。俺に何か用か?」
陽菜はにっこりと、花が綻ぶように微笑んだ。そして鈴が鳴るような、しかしその場の全員の背筋を凍らせるような、元気いっぱいの声で言った。
「隊長の唐揚げを盗むなんて、万死に値します!」
その言葉が、ゴングだった。橘が「やめろ、陽菜!」と叫ぶよりも速く、陽菜の体がしなやかな鞭のようにしなった。細腕からは到底想像もできない速度と威力で、彼女の右拳が機動隊員の鳩尾に突き刺さる。
「ぐぉっ!?」
機動隊員の巨体が、くの字に折れ曲がった。だが陽菜の攻撃は、それだけでは終わらない。彼女は男の胸倉を掴むと、まるでボールでも投げるかのように軽々と持ち上げた。そして、叫んだ。
「隊長の宝物を奪う不届き者は、壁のシミにしてあげます!」
次の瞬間、二百人以上の職員が見守る中、体重八十キロはあろうかという機動隊員の体が綺麗な放物線を描いて宙を舞った。その飛行ルートの先にあるのは、食堂の分厚いコンクリートの壁。
ゴッシャアアアアン!!!
人間が叩きつけられた音とは思えない、凄まじい破壊音が食堂に響き渡った。壁には大の字の形をした見事な人間型のクレーターが穿たれ、その中心で機動隊員は白目を剥いて気絶していた。パラパラと壁の破片が、彼の頭に降り注いでいる。
食堂は、死んだように静まり返っていた。誰もが目の前で起こった超常現象を、理解できずに固まっている。唯一人、陽菜だけがいつもと変わらない様子だった。彼女は己の手についた埃をパンパンと払うと、床に落ちる寸前だった唐揚げ定食のトレーを右手で器用にキャッチした。幸い、皿は一枚も割れていない。
そして彼女はそのトレーを恭しく胸に抱き、橘の方へと振り返った。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「隊長…! ごめんなさい…!」
陽菜は橘の前に駆け寄ると、深々と頭を下げた。
「私、我慢できませんでした…! 隊長があんなに、あんなに楽しみにしていた唐揚げを目の前で奪われるなんて…っ。私、許せなかったんです…!!」
その悲痛な訴えは彼女の中では、百パーセント純粋な善意と忠誠心から来ているのだろう。
だが橘には、悪魔の囁きにしか聞こえなかった。
食堂中の視線が、橘一人に突き刺さる。驚愕、恐怖。そして、「こいつ、何者なんだ…?」「この女は、いったい…」という畏怖。
橘は引きつった頬を必死に持ち上げ、完璧な笑顔を作った。
「あ、ありがとう、陽菜…。君の気持ち、嬉しいよ」
彼は震える手で、陽菜から唐揚げ定食のトレーを受け取った。まだ、ほんのりと温かい。これが、求めていた唐揚げだ。だがその黄金色の衣は、もはや食欲を唆るものではなかった。それは一人の男の尊厳と職場の平和を犠牲にして手に入れた、血塗られた勝利の証。
橘は自分の席に戻ると、静かに箸を取った。口に含んだ唐揚げの味は、よく分からなかった。ただ微かに、鉄のような味がした。それは壁に埋められた男が流した血の味か、あるいは橘自身の心が流している血の味だったのかもしれない。
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