スコープの先のあなた - (黒澤麗奈 視点)

 風が、頬を優しく撫でていく。心地よい、初夏の風。眼下に広がる街の喧騒はまるで遠い世界のBGMのように、鼓膜をかすかに揺らすだけだった。

 

 黒澤麗奈は雑居ビルの屋上の縁に、静かに身を伏せていた。敷かれたマットの上には、彼女の半身とも言うべき愛銃、『H&K PSG1』が鎮座している。西ドイツが生んだ、警察向け精密狙撃銃の傑作。そのスコープは一点だけを、ただひたすらに捉え続けていた。

 

 標的──ターゲット──ではない。彼女にとって、この世で唯一、守り、導き、そして所有するべき存在。

 

 

 ──橘圭一隊長。

 

 

 スコープのレンズ越しに見る彼は、いつもより少しだけ幼く見えた。制服を脱ぎラフな私服に身を包んだその姿は、近所の大学に通う学生のようにも見える。キャップを目深にかぶり、少し猫背気味に歩くその姿。その一挙手一投足が、麗奈の心を甘く締め付けた。

 

 

(ああ、隊長…今日も、なんてお美しい…)

 

 

 彼女自身も、今日は非番用の私服に身を包んでいる。とはいえそれは、街を歩くためのものではない。この誰にも邪魔されない「聖域」で、完璧な監視任務を遂行するためだけの、機能的な戦闘服に近い。

 

 体にフィットする黒のタンクトップに、動きやすいスラックス。そしてスラックスの下の脚には愛用の黒いストッキングを、普段と同じように身につけていた。これは彼女にとっての願掛けであり、戦闘服の一部でもあった。この肌に吸い付くような感触が、彼女の集中力を極限まで高めてくれるのだ。

 

 彼女は、ほう、と陶然のため息をついた。その隣に置いてあるのは銃ではなく、英国王室御用達ブランドのティーセット。優雅な曲線を描くポットから、透き通るような琥珀色の液体が、ボーンチャイナのカップに注がれる。ダージリンのファーストフラッシュ。その繊細な香りが、硝煙の匂いとは対極にある穏やかな空間を演出していた。

 

 麗奈にとって、これは任務ではない。これは、愛の営みそのものだ。橘隊長が非番の日。それは、他の二匹の害獣──陽菜と雪乃──の妨害を受けることなく、ただ一人、隊長の全てを見守ることが出来る至福の時間。

 

 

(あの二人も、それぞれのやり方で隊長を追っているのでしょうが…浅はかですね)

 

 

 麗奈は、静かに紅茶を一口含んだ。

 

 もちろん他の二人も、それぞれ独自の方法で隊長を「見守って」いるであろうことは想像に難くない。陽菜は持ち前の体力に任せて、物理的に後を追尾しているのかもしれない。雪乃は街中の監視カメラをハッキングして、モニターの前でうっとりしているかもしれない。

 

 

(けれど、それでは駄目なのです)

 

 

 麗奈は、静かに紅茶を一口含んだ。

 

 

(それでは、隊長の真のお姿は見えてこない。遠くから誰にも気づかれず、神の視点で彼を見守ることこそが、真の愛。そして、その愛を実行できるのは、この私だけ)

 

 

 彼女の視線は、再びスコープの中の彼へと戻る。橘はキョロキョロと辺りを見回しながら、大通りを歩いていた。その様子はまるで、何かに怯える小動物のようだ。

 

 

(警戒していらっしゃる…さすがです、隊長。常に周囲への注意を怠らないその姿勢、いかなる時も隙を見せない完璧な危機管理能力…! だからこそ、私はあなたに全てを捧げると決めたのです)

 

 

 橘が単に部下たちのストーキングに怯えているだけだとは、麗奈は夢にも思わない。彼女の脳内では彼の全ての行動が「常人には理解できない、深遠な思考に基づく行動」へと、完璧に変換されていた。

 

 やがて、橘の足は大型書店へと吸い込まれていった。

 

 

「書店、ですか…」

 

 

 麗奈はそう呟くとPSG1の隣に置いてあった、軍事用の超高倍率双眼鏡を手に取った。ドイツの名門、カール・ツァイス社製。闇夜の中でも二キロ先の相手の表情を、手に取るように読み取ることが出来る代物だ。

 

 彼女は双眼鏡を構え、書店のガラス張りの壁面越しに、橘の姿を追う。ビジネス書のコーナーを素通り。

 

 

(良いご判断です、隊長。巷に溢れる凡百の成功哲学など、あなたの前では児戯に等しい。歴史小説のコーナーにも目もくれない。当然です。あなたは、これから歴史を創る御方なのだから)

 

 

 そして彼の足は、雑誌コーナーで止まった。麗奈は、息を飲んだ。彼の手に取った雑誌の表紙を、双眼鏡のレンズが鮮明に捉える。『ange』。20代前半の女性をターゲットにした、ファッション誌。

 

 

(…!!)

 

 

 麗奈の心臓が、トクン、と小さく跳ねた。隊長が、女性誌を…? 一体、何故? 

 

 彼女は、橘の唇の動きを、瞬きもせずに読み取る。読唇術もまた、彼女が習得した数多くのスキルの一つだった。

 

 

(…こ…の…くろ…の…れーす…の…やつ…やばい…な…)

(…れ…いな…に…きせ…たら…)

(…れいな…の…あの…かんぺき…な…ぼでぃらいん…に…この…くろ…すとっきんぐ…と…くみあわせ…たら…)

 

 

 ──ドクンッ!! 

 

 

 心臓が鷲掴みにされたかのように、激しく脈打った。全身の血が、沸騰するような熱を帯びて駆け巡る。頬が耳が、カッと熱くなるのがわかった。

 

 

(た、隊長が…私のことを…!? しかも、あのランジェリー特集のページを見ながら…!? きゃ///)

 

 

 予期せぬ、あまりにも甘美なサプライズ。麗奈はこみ上げてくる歓喜に、思わず身悶えしそうになった。天にも昇る心地とは、まさにこのことか。隊長は私のことを、そのような目で見てくださっていたのか。ただの部下としてではなく、一人の「女」として。あのページに写るモデルたちと、重ねて…!! 

 

 だが、その至福の時間は、長くは続かなかった。橘の思考は、麗奈だけには留まらない。

 

 

(…ひな…は…おれんじいろ…の…すぽーてぃー…な…やつ…)

(…ゆきの…は…しろ…か…あの…しろい…にーはい…と…の…こんびねーしょん…)

 

 

 ──スッ…。

 

 

 麗奈の表情から、温度が消えた。先程までの熱狂が、嘘のように引いていく。代わりに心の奥底から氷のように冷たい感情が、ゆっくりと湧き上がってきた。

 

 

 嫉妬。

 

 

 どす黒く醜悪で、しかし抗いがたいほどに強力な感情。

 

 

(……あの女たちのことも、考えていらっしゃる…? 私の前で、私だけを見てくださっているのではなかったのですか…?)

 

 

 許せない。

 

 許せない許せない許せない許せない許せない許せない。

 

 許せない!!! 

 

 隊長の隣に立つ資格があるのは、自分だけだ。隊長のお心を独占する権利があるのは、この私だけ。あの頭の中がお花畑のゴリラ女──陽菜──や、幸薄そうな顔をして隊長の同情を買おうとする陰険女──雪乃──などに、その資格はない。

 

 麗奈は双眼鏡を握る手に、ギリっと力を込めた。頑丈なチタン合金のボディが、軋むような音を立てる。

 

 彼女は、静かに息を吸い、そして吐いた。冷静になれ、黒澤麗奈。感情に任せて行動するのは、愚者のすること。

 

 隊長は何か深遠なお考えがあって、他の女たちのことを想起されたに違いない。そうだ。例えば彼女たちの好みを把握することで、相対的に「麗奈という女が、いかに素晴らしいか」を再確認するためとか。あるいは彼女たちの欠点を洗い出し、いずれ切り捨てるための準備段階とか。

 

 

(ふふっ、そうに違いないわ…!!)

 

 

 自己完結。彼女の得意技だ。麗奈は再び冷静さを取り戻すと、懐からスマートフォンを取り出した。そして、愛する主君へのメッセージを打ち込む。今はまだ、その時ではない。今はまだ、忠実な部下を演じているべきだ。

 

 まずは、釘を刺すだけでいい。

 

 

 あなたの行動は、全てお見通しですよ…っと。そして私はあなたが望む「女」に、いつでもなれますよ…っと。

 

 

 送信ボタンを押す。スコープの中の橘が、スマホを見て凍りついたのが分かった。その狼狽した表情すら、麗奈には愛おしく見えた。

 

 

(ふふ…可愛い人)

 

 

 しばらくして、彼から返信が来る。

 

 

『妹にプレゼントでも』

 

 

 麗奈は思わず、フッと笑みを漏らした。

 

 

(隊長。あなたは嘘をつくのが、本当にお下手だ)

 

 

 その不器用さが、また愛おしい。麗奈は彼の経歴、家族構成、友人関係。果ては小学校時代の通知表の所見欄に至るまで、全てを記憶している。彼に妹などいないことは、当然知っている。

 

 彼女は、即座に返信する。

 

 

『妹君はいらっしゃらないはずですが』

 

 

 そして畳みかけるように、渾身の愛を込めた一文を。

 

 

『もしかして私へのプレゼント、でしょうか?』

 

 

 返信は、しばらく来なかった。スコープの中の彼は、まるで時が止まったかのように固まっている。その動揺ぶりから、彼の思考が手に取るように分かった。

 

 

(嗚呼、隊長。悩んでいらっしゃるのですね。私への愛を、ここで告白すべきかどうかを)

(大丈夫です。私は、いつでもあなたの愛を受け入れる準備が出来ています。いいえ、むしろ私の方から、あなたを愛で攫ってしまいたいくらいです…!! あっ、鼻血が…)

 

 

 やがて彼は、力なく書店を後にした。その足取りは、心なしか重いように見える。

 

 

(照れていらっしゃるのね…)

 

 

 麗奈は、満足げに微笑んだ。今日のところは、これくらいにしておこう。あまり追い詰めすぎると、この可憐な小鳥は本当に壊れてしまうかもしれない。彼女は優雅な手つきでティーセットと狙撃用具を片付け始め、ケースにしまいながら小さく呟いた。

 

 

「さあ、隊長。次はどちらへ向かわれるのですか?」

 

 

 彼の向かう先が定食屋であることは、既に予測済みだ。彼がカツ丼を好物としていることも、昨日ハッキングした彼のクレジットカードの利用履歴から把握している。

 

 麗奈は立ち上がると、屋上の縁から小さくなっていく彼の背中を見送った。

 

 

「どこへ行こうと、無駄ですよ」

 

 

 その声は初夏の優しい風に溶けて、誰の耳にも届くことはない。

 

 

「どこへ行こうと、私の瞳あいからは…決して逃れることは出来ませんから♡」

 

 

 そう言って微笑んだ彼女の瞳は獲物を見つけた猛禽類のように鋭く、そしてどこまでも深い愛情の色をたたえて爛々と輝いていた。彼女の非番の日は、まだ始まったばかりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だ、大丈夫かいあんた!? さっきから小鹿のように震えてるけど」

「だ、だだだだ大丈夫です。か、かかかかカツ丼が待ち遠しいだけですからァァ…!!!」

(今日は休日のはずなのに全然休めてる気がしない! 嗚呼、世界は残酷だ…自由が欲しいよォォォォ!!!)

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